私個人的にはhow toやthis is itよりもwhyを深掘りしていくことが好きなのだと思う。分からなさがじれったくもそそられてしまうものであり、放置しては考えまた放置して…その過程を不足する自分の頭でこねくりまわす。合理性も実利性もない、わざわざしなくてもいいことをどうしてか好き好んでしてしまう。

先日の座談会での話題である。長岡中央綜合病院の目黒先生と青陵大学の小林先生との会話が興味深かった。言葉の象徴する部分は必ずしも言葉で表されようと試みられた“それそのもの性”とは一致しないというものだ。ソシュールの言語学におけるシニフィアン(説明するもの)とシニフィエ(説明されるもの)の関係である。言葉というものは説明するものであり、切り取ることを通して区切ることや分類することがテーマである。言葉が立ち上がるためには背後に数知れぬ“それそのもの性”を排除しているというものである。実に多くの“それそのもの性”の躯の上に、言葉が立ち上がってくるのである。何かを選ぶということは何かを選ばなかったことであり、言葉が浮かび上がる瞬間に選ばれなかった“それそのもの性”の躯が霧散するように消えていくのである。何かの犠牲の上で何かが生まれ、何かが生じるためには何かが消失しなければならない。私が連想するのは知恵の実である。

言葉ももたない体験そのものの中を漂い自分とそうではないものが一体となっている楽園を追われ、世界を説明することの出来るものだと知ってしまうのである。言葉を通して切り取るということは切り取らないという選択を迫られているのだ。体験するものであった世界が説明するものに変わり、主体と客体が分離してしまう。世界との一体性は失われ、説明する側に立たされてしまうのである。「さあお前は何を想う」と問いかけられてしまうのである。

アダムとイヴは互いの裸体を目の当たりにして恥ずかしさのあまり葉っぱで身体を隠すようになる。「さあお前は何を想う」。この問いはアダムとイヴに繰り返しこだまする。恥ずかしいものと恥ずかしくないものが分けられ、羞恥という概念が誕生する。「分ける」ということは差異があるということであり、言葉とはそこに宿る。差異のない漠然とした均一世界で言葉は無力であり、何ら気の利いた説明することは出来ない。その空間で出来るのは、説明できない曖昧な感覚の最中に漂うだけである。

言葉を手に入れるということは一種の外傷体験に近いのかもしれない。その外傷とはJ.ラカンのいう現実界を捨て象徴界に踏み入れるということである。 “それそのもの性”は現実界に宿り、現実とは決して言葉で到達することが出来ない体験の世界である。言葉を持たない胎児や乳幼児期では何かを言及することをせず胎内を漂い、お乳によって口唇は埋められ満たされ続けている。これを享楽jouissanceという。世界と自分が一体となった享楽にいるのである。

やがて口唇から乳房が撤去されるようになると母の不在を埋めるために言語活動が開始される。「あるはずのものがない」「満たされるはずのものがない」と。世界と自分との享楽関係は、自分と母親が他者であることを通して分断されることとなり、再び一体となった世界の享楽を求めて「ママ」と発声するようになる。この「ママ」という言葉は、母の不在の印として象徴的に用いられるようになる。乳房が自分と一体であった世界にいる時に「ママ」は存在しない。「ママ」という発声は不在の印として、欲求を創造して行われる象徴界の出来事になる。世界を体験する側から説明する側に回り、世界における重要な何かの欠落を訴えているのだ。言葉とはまさに象徴界の代物である。

言葉とは不在を埋めるサインのようなものであり、“それそのもの性”の欠落の証である。“それそのもの性”と共にある時には言葉を必要としない。強烈な体験の真っただ中に没頭している時、無心で以心伝心が共時的に行われるような奇跡的体験の中で言葉は野暮になる。大人になると象徴界を抜けて世界との一体感覚を享楽できる時間は限られる(というよりも殆どない)。心理士としては言葉に軸足を置きながらも“それそのもの性”に興味がある。既に説明されているものよりも、今は説明できないものや説明されてこなかったものの残骸に興味がある。そう思いつつ、いつまで経っても本当の“それそのもの性”にはもはや出会うことが出来ずに、結局は“それは、そういうもの”と不十分な落とし前を付けていくことが多い。これが現在の私の臨床能力(凡庸で鈍感)であるとも思っている。時に、極めて優れた臨床家は“それそのもの性”と思わしきものに辿りつくような臨床をすることがある。そこにあるのは人ではなく人の形をした魂の共鳴なのだ。