こどもmirai研究会が立ち上げから半年になろうとしている。苦労したことや楽しかったことそれぞれある。殊更11月のリリックホールでの研修会は楽しかった。世話人で仕事終わりに何度も集まり、どのようにしたら地域の役に立つか、我々の意図が伝播していくのか模索していた。様々な方面にパイプを持った先生方が多くの広報をしてくださった。そして世話人の先生方が主体となって幾つかの講話をしてくださった。やはりワクワクするのだ。協力が心強く、励まされた想いがする。

私の知り合いなどから「何でこんなことに熱心になれるの」と、一切お金にもならずに時間と労力をかける活動に疑問を投げかけられることもある。私は今この瞬間もコラムにこうして想いを書き連ねており、確かに大したことないことを熱心に投稿し続ける変人である。ナルシズムの発露として機能していると皮肉を言われても仕方がない。その核心は一先ず置いておくことにして、個人的には割と楽しんでいて苦ではない。コラムは他者に届けるというよりも自分の頭の整理のために用いている印象が強く、実に我儘な作業になっている。見たい方がいればそれで構わないのではあるが、自分が何をどのように理解してどのように表現するのかを自分に課しているだけなのである。質の悪い投稿を重ねご迷惑をおかけしているが、そもそも臨床的ディスカッションを誰もが積極的にしていく場でもあるので許してもらいたい。

以前青陵大学の小林准教が連携のベースに「わからなさ」があると言っていたことを思い出す。自分にとっての「わからなさ」が分かるということは半面して、「わかっている」ことは明確であるというのだ。自分が何を知っており、何が出来るのかが分かっていることで、誰と何を考えるべきなのか分かるのだ。それでなければ、そこにあるのは連携ではなく丸投げ、放棄である。こどもmiraiは世話人はじめ自らの知財の共有を行いながら、わからなさに面白みを感じ、考えることを楽しむ場であるのではないかと思っている。

教科書的知識が欲しいなら専門書やCINII、GINIIなどを見ている方がずっと効率がいい。こどもmiraiではディスカッションに重きが置かれていて、参加型の体験を通して自分を知っていくことに近い。勿論教えてもらえる知識もあるが、自分の臨床的考え方を深めていくことは誰にも教えられない自分自身の作業である。自分で自分を発見する、きわめて個人的な体験の中にしか起こらない現象もある。時間がなくて難しい、そんなことしなくても自分は十分に物事を知っている、臨床家として生きていくのに苦労していないという方には少しばかりの価値を見出すことは出来ないだろう。

自分の理解していることを繋げて深めていく作業は多少現実離れした非合理的な想像のもとに非効率的に行うことが適しているように感じる。そしてその作業は生産性や成果、結果だけを求めるものであってもならないような気がする。私の感覚からすると、たとえば合理性に対する反発としての不登校や引きこもり、または非合理的で非生産的なやり方を通して自己存在の証明を模索している不登校や引きこもりという節があるように感じてならない。発達障害についても合理性に対する社会適応不良という文脈で捉えることや、本人の中にある本人成りの論理における合理性というものが社会的価値観の下では不適応であるような気がしてならない。そのような人間的な生きにくさを引き受ける身としては、非合理的で非効率的で非生産的な物事にある程度親しむことは必須の素養の気がするのである。かつて金八先生が言っていたように「私たちはロボットを育てているのではないのです」といったところだ。

こどもmiraiは面倒さをはらみながら非効率的に人と人が顔を見える中で話し合うことに価値があるのではないかという私見を述べてきたのであるが、やはり半歩引いて物事を見ると全てが滑稽で軽薄でうさん臭く感じてしまうだろう。なぜなら「このように素晴らしい学びがあります」という学問的誘惑よりも、「一緒にこのことを考えてみませんか」という思索的または探索的誘惑であるからである。例会は講義の要素を含みながらも座談会であり、全体研修も研修後の懇親の場がより白熱したりもするわけである。昨今の潮流において、“一緒に性”は難しくなり分断の中でどのように会うかという模索の最中であり、こどもmiraiは流行らないなと思いつつ、延べ80名程度の会員となった。このような発想の元で専門家同士か領域や立場の垣根を超えることが出来ないかと淡く願いを抱くのである。

同時に、このような発想はどこか危うさを含むものでもある。領域には領域としての聖域があり侵食を嫌う、立場も同様だと思う。それは当然のことで極めて重要な事でもある。「分からないものに容易に手を出すな」「専門家の知識は専門家であるから利用できる」「ここは自分の領域ではないので」「専門家の専門家たる所以が分かっていない」という話になるのである。

しかし一方で、地域にとって何が重要かという視野に立つと万屋(よろづや)的発想に価値があるのではないだろうか。たとえば地域や家庭における支援者は専門的術式ではなく、「置き薬」のようにある程度生活に必要な情報は包括的に理解していることに価値があってもいいのではないだろうか。地域の支援者が先端医療機関並みの極めて優れた臨床技術の提供をできなくとも、ある程度の知識と技量を持って連携しながら地域や家庭を支える。実はlocal性をどのように機能させるのかという着想こそが重要な気がしている。地方都市で行うことの出来るこども支援の在り方に独自性を見出しワクワクできないかという話である。大都市圏では出来ないことがここでは出来るのではないかという妄想であり、情報量と経済性または支援施設数と支援者数の不足を、領域ごとのアクセスとコネクトの力で乗り越えていくような。草の根的に、多くの人々のバイタリティーに頼りながら動かしていくしかない非合理性を楽しんでいる部分がある。行政がやったらもっと効率がいい、医療がやった方が常識的であるなど、極めて妥当でまっとうな意見の中でわざわざ民間の有志がこどもmiraiに携わることの意味は何だろうか。

極めて優秀なミシュラン掲載店の料理人が素晴らしい料理を一日10名に提供することも素晴らしいことだが、地域の名の知れぬ飲食店が独自のこだわりを毎日提供し続けることで市町村が循環していることを忘れてはならない。スーパーマンのような専門家だけではなく、地域に潜む八百万の名もなき支援者は財産である。そこにアクセスしコネクトしていくことが結局は地域臨床を強くしていく。先週、医療福祉大の永井教授と話をする機会があったが、そこで「連携には二つの軸があり、縦の連携と横の連携がマトリックスになっている」と教えてくれた。従来的なトップダウン型(先生はピラミッドと表現されたが)の連携だけではなくボトムアップな横の連携もあるというもので、フラットな中で各専門家が関わる文化は中々ハードルが高いけど必要な着想であると励ましてくださった。ユニバースではなくマルチバースであり、「ひとつの答え」を求めるのではなく「様々な答え」を包含する大きな器が必要である。雑多な曖昧性を思索的に楽しむ許容された空間が欲しい。地域臨床は総力であり、総力を最大限化するのはアクセスとコネクトの利用可能性の追求ではなかろうか。資源があっても出力を最大化されないのであれば、持ち腐れである。

私の良く知る人がよく言うことが、「凄い臨床や研究は病院の中で行えばいい。地域では現状支援のクオリティーが1㎜でも高まれば地域や家族のためになる」と。看護師が理学療法士に運動機能について学び、保育士が臨床心理士と子どもの指導について意見の違いをぶつけ合い、言語聴覚士が作業療法士と子どもの遊びの質について検討するようなことが日常的に生じる。様々な思索や探索が行われる。これはある側面から見たら眉唾ものになるだろうが、地方都市の限られた地域支援や家族支援の中でこのような連携の模索を草の根的にしていくことは価値があるように感じている。教えてもらうのではなく一緒に思索や探索をしていくのであるから勅諭的であってはならず、創造的ディスカッションが期待されるわけである。そんなこと電話やメールやZoomで出来るわけがないというのが私の感想だ。飲みに行って顔を赤くして話している方がずっと臨床的な意味を帯びる展開が待っている気がするのだ。自分とは分離した対象から教わるというものではなく、参加している場の体験に自分が没頭しながら関与しなければ得るものは殆どない。結局は価値観の語りあいの中に自己主張と自己発見を見出し、明日の臨床に向き合うという良質な日常の獲得こそがしたいことなのだと感じている。19世紀の芸術家のエトガーエンデが彼の知り合いの哲学者や思想家と毎晩のように画廊に集まりお酒を飲みながら論議を繰り返していたように。