毎日インターネットに釘付けとなる。テレビではお笑い番組やドラマが流れ普段と変わらぬ日常の中に、ニュースの一つとしてウクライナ危機が報じられている。民放であれば仕方がないがNHKであれば24時間とまではいわないが、悲惨な現状と政局、それに関連した政治経済などの情報を最優先に流し続けるべきではないだろうか。見たところで私にできることは楽天から義援金を送金するボタンを押すこと位しか出来ないの自身の意気地のなさを感じる。

よく生きるためには健康な鈍感さが大事であるという言葉が私は好きでよく使うのだが、今まさに不健康な敏感さの真っただ中にいて寝つきが悪く慢性的な不快気分の最中から抜け出せない。NATOが一度手を出したら第三次世界大戦の可能性が飛躍的に高まる、それでも見殺しには出来ない。結局は一人の命のために、ウクライナ人の命のために、全世界が自分の命でその責任を負うことは出来ず、後方支援に徹する。そういう私も悲劇を目の当たりにしながら普通の生活を送り続けている罪の意識は拭えない。後方支援とは聞こえがいいが、何もできない自分を慰めるために義援金を送る。自分が平和に生活していることに対するそこはかとない申し訳なさから逃れることは出来ずに、これまで何度かそうしている。幾ら払っても、何度送ってもこれまでのような罪の意識は消えそうにない。おそらくまた同じような行動をする。

動物は戦争しない。するわけがない。動物は自分が生きるために戦うだけである。生きていくことが出来る分以上は無理に戦うことはない、それどころか避ける。人間は繰り返し戦争をしてきた。21世紀でこれほど愚かなことが繰り返されることに失望する。腹が立つ。

動物の戦いは自分の命を守りつなげていく自己愛によって支えられている(本質的に自己愛があるかないかという話題ではなく、便宜上そのような説明をしたい)。命を守り育むこと以外に自己愛が暴発することはない。人間の自己愛は他者に向く。人間は周りからどのように思われ、どのような立ち位置に居てというように、他者から欲望されることを求め続ける限り自己愛は無限に広がり続ける。

動物の自己愛は本能に依存し、人間の自己愛は欲望に依存する。動物は自分の心身を満たすことで事足りて、それ以上何かを目指すことはない。これを対自的自己愛という説明をしてもいいように感じる(本質的には異なるが)。一方の人間は自己愛が他者に向かい、他者との相対的な比較の中に自分を発見していく。これを対他的自己愛という形で捉えたい。相対評価の渦の中に入り込んでしまうと、自身の価値観を他者の評価の中に見出し他者からの評価と称賛または地位や栄誉を欲し続けていく。そこに他者がいる限り、欲望に際限はない。他者から欲望されることを求め続け、欲望され続ける自己像の渦の中に巻き込まれていく。

よく調べずに書くが(調べたくもない)、柔道から始まり様々な会長職や名誉職に就いていたことが嫌でも記事になっているため目に入る。国民平均年収が100万を超える程のGDP国家で20兆という私財を築き、一国の大統領では飽き足らず旧帝国への帰還を欲望するためグルジアやクリミアの侵略併合、そしてウクライナ。欲しくてしょうがない、不足していることに耐えられない、ないという事実に心が受け入れられない。何で手元にないのだ。これを我慢して譲る、分ける、諦める、自分の既に手にしているものの価値で満足することが出来ない。彼の欲望は過去の栄光へと繋がっていて、旧ソ時代にナチスドイツから欧州を解放した時代を生きている。ウクライナをネオナチズムとプロパガンダして虐げられてきたウクライナにいるロシア人の開放を夢見ている。異常なまでの不足に対する耐性不良や被搾取感は欠損する自己愛を補償するための質の悪い妄想だ。いつまでも満たされることのない底のないバケツのように、どれほど何かが注がれても満足がない。資源大国として欧州に石油や天然ガスを輸出して経済運営をしてきた彼にとって、自分のものが常に奪われ続けているのだろう。それは貿易であり、等価交換であるはずのものがどこかですり替わっていく。本来は私のものだ、私のものが奪われた、欲しい、もっと欲しい、まだ足りない、どうしてこれほど不足している、欲しい、欲しい。底の抜けたバケツから絶えず欲望が「入りは抜けて」を繰り返す。ボクのものがなくなった、返せ。還せ。欲望に憑りつかれ、欲望に搾取されながら生きる物(もの)の怪(け)の歴史を今目の前で目の当たりにしている。