「この間の話面白かったよね」私が隣で事務仕事をしている言語聴覚士のSK先生に話しかける。SK先生も作業の手を止めニヤリとしてこちらに顔を向ける。昨日座談会後1時間程度まだ寒い長岡の夜10時、さいわいプラザの駐車場でディスカッションしていたにもかかわらず、また話したくなっている。SK先生に構ってもらうためにディスカッションへの誘惑をしている。その後大学教授のTK先生も加わり、20分程度心躍らせる時間を過ごすことができた。癒された。

ゲームないしはメディアというものを辞めさせる必要はない、そういう発想が危ういという軸足の元に会話が始まる。TK先生は学生時代ゲーム漬けの生活を送っていたらしく、その時に「俺の話を聞いてくれるのはゲームだけだった」と教えてくれた。彼が家庭の話をすることはそれほどない。知的で凛としたK先生の思いもよらない発言に胸がうずいた。それはTK先生への同情なんかではなく、自分自身の苦い過去を思い出したからだ。僕は小学校低学年からサッカーをしていて、高学年に差し掛かるころ、急にサッカースクールを辞めさせられた。理由は簡単で、父親が進学校に行かせるためにサッカーが必要ないと判断しただけのことだった。

当然そんなことで勉強のやる気が漲ってくるわけでも、成績が上がるわけでもなく、何もすることのない空白の時間が生産されただけだった。ぼらぼらぼら、僕の頭の煙突から生きるエネルギーが焼却処分され煙となって吐き出されていた。仲間はトレセンやJクラブユースに進んでいく。平日の夕方や土日は、彼らがグラウンドで活気づいていた。僕はそれを横目に、一人で壁当てをして暇を解消する。塾に行く前、帰ってきてから何かにとりつかれたように、近所で一人ボールを蹴っていた。 “それなしでは生きていくことができないもの”に頼らざる負えないとき、これが依存症だ。僕はサッカー依存症だったのだろう。それでも病院に通わされることなく、サッカーバカとして両親やご近所さんから白い目で見られる程度で済まされたのは救いだった。その時に急にスーツを着た大人や白衣をまとった人が現れ、「病気です」と言われたら発狂していたと思う。

ここで話したいのは苦い過去のことではない。辞めさせようとすると逆に憎悪した症状が生じるかもしれないということだ。強い感情を伴った体験を撤去されると、それは実に苦しい。恨みだ。それをかき消すためにはもはや手段を択んではいられない。泣くかもしれない、手が出るかもしれない、無視するかもしれない、出ていくかもしれないということだ。つまり好きになったものをだれかの都合で辞めさせるのは、子どもにとってはそれを要請するものとの間の人間関係を破綻させるほどのインパクトがある。そうならないために、子どもは「これからは気を付けます」と口約束をして、再びボールを蹴りに行き、コントローラーを手にし、これまでと同じ生活を維持する。人を恨み行為に没頭する。これが依存症だ。依存からは何も学ばない。そこにあるのは学びではなく動物的な習癖である。習癖は意味を帯びない。そして習癖することの快楽よりも、習癖しないことへの苦痛が勝るようにもなる。しないことが許されないのである。“やりたい”から“やらずにはいられないもの”へのゲートは常に開かれていて、そして二つの扉はとても近いところにある。

少し話をずらす。先日僕の普段使用しているPCが壊れてしまった。5年以上は使用していたので大往生である。普段、仕事でワードとパワーポイントくらいしか使用しないのでパソコン代金をケチることにした。親切な事務のUさんがとっておいてくれた広告チラシを眺め、週末に3万円握りしめハイブ長岡へ。自宅に帰って袋からPCを取り出してみるといささか大きいかと思ったが、それ以上に節約できたことへの充実感が勝る。急いでパソコン起動させる。ここからが話の要だ。

キーボードの反応も遅く、ログインに数十秒かかる。せっかちで強引なこと僕は貧乏ゆるりをし、机の上にはいつの間にか電子タバコの吸い殻で溢れかえる。なんとか気持ちを鎮めて溜め込まれていた資料の作成に取り掛かる。この時には完全にチェーンスモーカーである。1枚10分程度で終わらせることができるものを、30分かけて作成した。これには参った。事務のUさんのところに行きことの顛末を伝えると、優しい笑顔で「いらないなら会社に寄付してください」と。私は都合よくこの地球のどこかで有益な使い道のできるのなら、これは最善の行為であったのだと信じることにした。寄付なんてすばらしいことをしたじゃないか。そして夕方、家電量販店で安くはないパソコンを買う。かなしかな。

僕は言う。「パソコンって、できないよりも、できるのに遅いほうがつらかったよ」。

SK先生「パソコンって効率性とったらガラクタじゃないですか」。SK先生はいつも核心を鋭く切る。しかし今回はガラクタじゃありませんよ。立派な寄付行為になったのですから。

TK先生「辞めさせるどうこうではなく、効率の悪いことに親しむのって大事じゃね」。

実にその通りである。元来からできないものへの思い入れよりも、できると思っていたのにできなかったときの方がつらいのである。僕はあるアイディアを思いついた。「パソコンを禁止するのではなく、起動を遅くする、動作を緩慢にする、低速が最大の支援になるんじゃないか。4Gや5Gは子どもにとっては悪魔だ」と高らかに。TK先生はマスクで隠れた顎を撫でながら「さっきからそれを考えてたんだよね。子どもを効率性の犠牲者としてこの問題を定義する必要がある」と言う。あっぱれ。ごもっともである。犠牲者を思いやることなく、犠牲者に新たな教育的指導を強いるのは大人の傲慢である。

「あなたが問題です」という人を問題とする、そういうことを安直に言う社会を問題とする。結局問題というのは、あくまで問題と思う側にとっての目の上のたん瘤でしかない。そして問題と思う側にとってのトラブルシューティングの伝記や武勇伝でしかない。

僕は言う。「ツイッターとかミクシー、ラインとか、別々のツールだけど、使い分けできているのかな。人はたいてい同じ方法でしか用いていないと思うんだよね」。

SK先生「ツールによる使い分けをできるほど器用じゃない」。

TK先生「そもそもツールの性質を学ばなければ、ツールを辞めさせることも使わせることもできないよね」。

僕は言う。「人間は基本的には道具の性質に自分をわせるのではなく、自分の欲動のためにそれらを用いるだけだから、ツールがなんでも使い方は同じ。ようは人に会いたいだけなんだよ。その根本を技術的に効率化したものでしかない」。

SK先生「所詮人が作ったものは、その機能上必ず人の欲を喚起するよね。科学技術なんてものは人の行動の拡張でしかないから」。SK先生のメガネが窓の外の光を反射したように輝く。

僕が言う。「絶対に依存症にならないSNS作ろうよ。ほら不便さが重要だって話したじゃない。例えば保存しておけないSNSとか。すぐ飽きるでしょ。情報が残らないのだから、グチグチ見直すこともない。させないじゃなく、させすぎない。したいじゃなくで、しきれない。最高じゃん」。

TK先生「情報は保存していることに意味があるから、保存されない情報は依存させないかもね。ただつまらない。SNSよくやる人って情報が保存のエキスパートみたいなものだと思うんだよね」。

僕は言う。「なぜそんなに保存したがるのか。情報に限らず、モノでもお金でも。整理できない、必要なものと必要じゃないものが区別できない。持っておくこと自体が価値のようになる。まっ、根本的には物資主義と不安で片付けるとわかったような気になるけれど」。

TK先生「どれほど情報を持っているか、ネットワークに参加しているか否かが問われるよね。どことなしか、依存性というか強迫性を帯びるよね」。これを言語聴覚士の先生が口にするから面白すぎる。外はやや曇っているので先ほどのメガネの輝きは内側からのものかもしれない。

僕が言う。「依存も脅迫もさせないSNSできるよ。ほら、日本古来のコミュニケーションとしての五七五でやり取りしたら、面倒だし頭使うし、不自由だからさ。システムチェンジにはこれくらいインパクトある無意味性に最大限の意味を詰め込んだツールがあってもいいんじゃない?」。

SK先生「じゃあ、リターン側は必ず七七にするとか」会場中が大笑いであるが、実際の客は中年男性3人だけであることが寂しい。滑稽でありながら臨床的には芯を食っている話題におなかが痛い。

僕が言う。「そういうもの作ってほしいな」。

TK先生「ね、面白いかもね」。

SK先生「絶対流行らない」。また彼は核心を突く。

なぜ人は情報のとりこになるのか、情報を手放せないのか、依存症になるのか。情報の重要性を検討するときには哲学者ベンサムの設立したパノプティコンを思い出す。刑務所である。中心部に監視塔があり、放射状に建物が向かい受刑者がそこに収容される。日本では小菅刑務所はわかりやすい。権威は情報を持つものに集まり、情報収集はその力を効率化のために費やす。情報を効率的に集約していることこそ権威性とは言わないまでも、何等か人間関係の力(影響力)になることは否定のしようがない。

ツールごとの独自性はすっ飛ばして結局は同じ目的のために用いられることなどを考える前に、流行らないSNSを開発すること、効率的ではないメディアツールを重要視すること、面倒な制約の上でコミュニケーションを維持することを想像したほうが意味ありそうだ。そのような着眼は、巷ではこれまでそれほど語られてきていないような気がする。現行とは逆行することを実験的にやってみたい。五七五七七での上の句下の句コミュニケーションは最高に面白い。ネーミングは【オクユカシ】あたりでどうだろうか。

子どもは言う。「こんなのやってられるか」そして携帯を置いて、怒りに肩を震わせどこかへ歩き出すだろう。早ければ早いほうがいい、便利なほうがいいに決まっている。恐ろしく直線的で、光の速さで目的にたどり着く。そうすると、「ほら、時間が余ったよ」。あちこちで人生における大事な時間の落し物がでてくる。モモに出てくる時間泥棒の仕業に違いない。余った時間、人は時間銀行にそれを預け、節約された時間で余暇を得る。贅沢に使うはずだった余暇は退屈に形を変えて襲い掛かってくる。やることがない。どうしよう。そして利き手が小さな四角いタブレットやコントローラーを握り始める。

「ママ、約束守るから携帯貸してよ。お願い」。

「もー。次はないからね。わかった?約束よ」。