出来そうで、できない。凄く見えないけれどもすごい、そういうことがある。一見ごくありふれていながらそこに専門家としての矜持をみるようである。実は難しいことを「ふわりと軽やかに」「難なくさらりと」行うことは簡単ではない。たとえば何らかの理由で不安が喚起され教室に行くことが難しい子どもには忍者ごっこや動物真似をして、感情表現が制限され人との共有が難しい子どもとは迷路やなぞなぞのような本を持ち出して上手に感情の共有を図るように。レトリックである。重たい受け止められない事実をふんわりと軽く、怖がらず脅かさないものへといつの間にか変えていく手品のようである。

レトリックとは「言葉を使ってうまく表現する技術」「言葉を使って美しく表現すること」であるが、簡単に言えば“ことばのあや”である。 それは話題を本質的論点からずらしてしまうとして真意が誤解されることや、分かりやすく端的にやったほうが正しいとその行為が批判の的にもなる。正しく伝達すること、分かりやすく伝達すること、効率よく伝達することが求められる現代の中で、レトリックの豊かさに重要な価値が置かれていない気もする。しかしながら、単なる形容表現と侮るなかれ。非常に人間味のある、使い方によっては驚くべき力を発揮することもある。レトリックとは通常のやり方では通用しないまたは不十分な時に用いられる「真剣で切実な」やり取りである。“ことばのあや”は遊びではない。

現実に即して世界を客観的にとらえて表現することを、伝達者側からの目線だけに立つとレトリックはまどろっこしく、キザ臭く、軽くとらえられてしまう恐れがある。時に無意味でくだらないとその価値が評価されないこともある。一方でレトリックの本領はいつでも伝達される側に立つ。現実に即して世界を客観的に伝えるだけではなく、ある時には事実よりもリアリティーをもって、ある時には行動変容をもたらすほどのインパクトを伴うことがある。そういう可能性を秘めている重要なやり取りである。その重要性は「わたしとあなた」という二者関係の中に宿る、二人にしかわからない価値であり、まるで秘密の治療のようなものだ。外部者にはそのやり取りにおける影響力は測りかねるだろう。

一番わかりやすいのは「いたいのいたいのとんでいけ」である。あれは魔法の言葉である。痛みを共有しながら体の内側から空へと放ってしまうのである。本当にある程度の痛みは飛んでいくから不思議である。人間とはそういう精神的な生き物であることが見せつけられる。あれは他人がやっても価値や意味は帯びない。重要な他者がしてやることで、何か重要な体験(儀式)が行われる。

「誰も気にしていないから教室行きなよ」ではなく、「忍者や動物になって忍び足しよう」という言葉が子どもに与えるなにかしら。レトリックは事実に対して意味を添える、価値を付け加える、そのように思う。信じることのできるものを一緒に作り上げる創造行為である。それは“ことばのあや”ではなく、二人で体験する秘密のメッセージになる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。硬直化した情報としてではなく、事実としてのデータの証明ではなく、レトリックは頭ではなく身体に影響を与える。患者の目の当たりにしている事実が大きすぎる、重たすぎる場合に、レトリックの力でどうにか抱えられる範囲のものにしてやる。またはその逆もあり得る。レトリックを用いて深刻度をリアルに感じてもらい、実感を持った体験に入り込む。

先に例で挙げた迷路やなぞなぞのような本もしかりである。一緒に本を見やる行為は象徴である。なんの象徴か。それは理解と共感と共有である。本質的な問題行動に対して遊びを通して何がもたらされるのか、それは患者が理解と共感と共有があれば多くの場合は自分を取り戻すことができる力があるという信頼(期待)である。信頼があるから遊ぶのである。信頼がなければ遊んではいられない。一生懸命に目くじらを立てて説明し、説得し、説諭する。真剣に遊べば分かり合える、共有できる物事があると仄かに期待しているのである。患者はその期待に応えるのである、落ち着いたり、話始めたり、安心して振り返りをしたり。

レトリックは臨床において価値の共有のためにもちられる。事実の伝達により不必要に不安にならないように柔らかい言葉でくるんで見せることや、勇気を持たせるために所々彩色をする。覚悟を抱いてもらうために再現度を上げることや高音にすることもあるかもしれない。レトリックによって事実に創造性の翼が宿り「実感」や「手ごたえ」を得ようと羽ばたきはじめる。エビデンスやロジックに基づいた事実も重要なのだが、それらをどのように機能させるか、事実にいかにして働いてもらうかということは重要視されず凄みを見出されないことが多い。

私の立場では、事実ではなく物語を扱う。どのような物語を事実として受け止め生きてきたのかに焦点が当たる。心的現実というやつだ。患者の語る物語が硬直化したエビデンスやロジックが語られては困るわけであり、レトリックを含んだウィットなやり取りが意味を帯びると確信している。日々いろいろな場所で様々な人の行う臨床を目にしていると学びが多い。「あー、世界はカラフルで目がくらむ」。窓の外は夏になり始めた強い日差しで白んで見えるが、もともと細い自分の目をさらに細くしてよく見ると、青赤黄色。これもレトリック。私はライムイエローが好きである。