あまり聞き慣れない言葉かも知れないがレジリエンシ―という概念がある。これは精神的健康度の指標となるものであり、様々なストレスに対してうまく適応する能力のことである。適応能力や回復力、修復力などと考えるとわかりやすい。これはストレス状況下で悲惨な出来事を経験しているからといって必ずしも誰もが不適応状態に陥るわけではないことから生じてきた概念である。

レジリエンシーにおいて精神科医の斎藤環氏が提言しているものは「健康な鈍感さ」であり、それを構成している要素は「把握可能性」「処理可能性」「有意味感」だとしている。換言すると「わかる」こと、「できる」こと、そして「意味がある」と確信していることである。

臨床家個人としてのレジリエンシ―とは、目の前の患者の問題が分かること、そして対応の仕方が分かること、さらには自身の行う臨床業務において患者ならびに支援者が互いに意味を見出し、価値があると思うことが出来ることである。私のような心理士の場合には面接室内での職人的な心理療法が出来るのならば、職業人としての精神的健康度は損なわれずないことになる。

但し通常は、その個人が所属している組織(病院や学校、会社)がある。そこで臨床家は“出来ること(したいこと)”と“やっていること(求められている事)”のギャップに悩むこともあるだろう。この悩みというものは組織と臨床家個人の目指しているものが必ずしも一致していないことを意味していると思われる。

では組織の目指しているものとは何だろうか。それは構造的維持であり、如何なるトラブルに陥ったとしても組織が存続するということを置いて他ならない。そしてその際に用いられるものがレジリエンシ―であり、先にも述べたように適応能力や回復力、修復力としての「いかなる変化によっても同一性を維持する機能」ということである。すなわち中身の部分では刻々と変化が行われたとしても組織としての構造を維持しながら進むということである。組織としての構造がその都度変更を繰り返し変化し続けてしまうと不安定であり、遂には解体してしまうことすらある。それを守るために就業規則や服務規定などがあり構造を保護している。つまり各個人が縛られていると感じている構造的束縛によって個人は守られ、個人が守られ続けるためには組織は存続し続けなければならないという関係になる。器としての組織を維持していくことに大きな価値がある。齋藤環氏は「流動的な形態と、保存される構造」との関係と説明している。

個人は個人の精神的健康度を志向し、組織は組織の健康度を志向する。個人の精神的健康度とは職業人としてのアイデンティティーの発揮であり、組織の健康度とは組織が安定する事である。これらの関係は階層的に表現されることがある。組織のレジリエンシ―を維持するためには個人の死(個人的主義主張の抑圧、好き勝手は駄目)という要素が含まれ、さらに個人としてのレジリエンシ―の背景には膨大な細胞レベルでの死が潜んでいる。細胞は絶えず新陳代謝されなければならないが、身体的構造は変化してはならない。細胞の非代謝性(異常増殖)が癌である。これをアポトーシスという。

話を戻すと、たとえ天才的臨床家を5人集めて各々の臨床でいくら実績を高めようとも組織は安定しないのである。組織における内容物とは人と人の関係であり、そこに通底する価値観であり、そのような流動的な力動の安定を必要とするのである。天才臨床家も組織の構造における安定性を破壊してしまうようならば極端な話ではお払い箱になってしまう。

では良い組織をつくるとは人間関係偏重でいいのだろうか。それももちろん違う。必要なことを言わずに個人を殺してしまっては、良い臨床が出来るはずもない。それでは患者に申し訳が立たない。個人と組織はある意味では緊張関係でなければならないと思う。流動しない形態はトートロジー的な考え(前例史上主義)を生み、発想や創造のないマンネリに陥り思考低下を招く。個人は組織を絶えず刺激し、組織は個人を抱えておくことの出来るよう柔軟で破れない器を用意する。個人と組織はなれ合いになってはならないと思うのである。組織への埋没は臨床家としての非自立性として成長を止めてしまうだろう。

緊張関係ということは別の観点で言うところのサーモスタッド機能でも説明が出来る。エアコンというものは非常によく出来ていて、設定温度に対して冷却装置はプラスマイナス1~2度で絶えず揺らいでいるのである。27度設定を目指して25度~29度程度を臨界としながら揺れ動くのである。恒温的安定性を保つために揺らぐのである。これも「流動的な形態と、保存される構造」の関係性である。安定や均衡とは一定の揺らぎの中に存在するのである。組織の中の人間関係や臨床的価値観などの葛藤を熱すぎず冷めすぎず維持していくのである。35度の天才的臨床家がいると27度で保つことが難しい。22度のやる気のない職員が居ても同様だ。組織は27度の仕事を要求し、35度の臨床をしたい職員の欲求不満を抱え、22度の職員の調整をしていくことが求められる。流動する形態を維持するのはとても難しいのである。

やはり私は自立した個人が組織と葛藤する中で、27度の意味について問い続けることが必要なのだと思う。それはおそらく多くの人にとって暮らしやすく快適であるということなのだと思う。単純である。最後に齋藤環氏の言う「健康な鈍感さ」とは正に27度への敏感性ではなく25度から29度の揺らぎを許容する補正力であると思う。個人も組織も鈍感な力を。「みんなちがってみんないい」精神である。

あくまで27度を目指すという画一性を求めるのではなく、27度が快適である合意を図るのである。揺らぎの幅がポイントなのである。暑すぎる寒すぎるという各個人に対しては、扇風機を与えることや一枚は羽織る物を渡してあげる。それが職場内での傾聴関係であることや、インセンティブ制の導入、興味を抱くものを一緒に考えることなど動機づけの手伝いをすることなのだと思う。または35度の仕事が出来るよう組織の中で部分的独立性を与えてやることもできる。つまりは環境調整である。

個人間で互いの温度の違いに動揺して批判し合うのではなく、目指している組織としての適温について個人と組織が合意を時々確認するのである。つまりは自分の臨床家としての温度を自覚していなければならない。自己覚知の問題である。自分と誰かの問題ではなく、自分と組織との問題なのである。個人のためだけに優れた臨床をすることも違う、組織のためだけに個人の臨床的価値観を抑圧することはもっと違う。答えは葛藤の渦の中で両足を踏ん張りながら絶妙なバランスを模索することの他ないと思う。臨床家は“出来ること(したいこと)”と“やっていること(求められている事)”を嫌と言うほど自分に問いかけるべきなのである。そこにレジリエンシ―が宿ると考えている。