普段の座談会はこどもmiraiの活動の不十分さとコロナ渦も重なり、なかなか人数が集まりにくく少しもの悲しい気持ちがしていたが、市議の先生やピュアハート(長岡市青葉台で放課後等デイサービス事業をされている)の職員数名など新しい風を迎えて開催することができうれしい思いがする。やはり顔が見え、話し合えることは幸せだと思う。

さて、先日理学療法士の熊谷氏より運動機能の獲得についての講話を聴いた後の連想を書きたい。まず大きな感想としては、身体の局在性に身体性を切り取り話されるのかと思いきや、身体の全体性または統合性について話題が展開されていた印象だった。熊谷氏の言葉を借りると「身体の最適化」「身体はオートマチック」「身体のエコ化」というものであり、人間の身体というものは自然に環境に合わせるようにできていて、見た目上は身体が非常にいびつな状態(たとえば加齢によりひどく腰が曲がる、上半身麻痺により上肢が下がり内転しているetc)となっていたとしても、それはある種の(または結果としての)均衡状態であることがあるということだ。通常はいい姿勢という典型的に模範なる身体性があり、それは見た目もいい。ただし見た目上いい姿勢であったとしても、ひずみを有していることがあるようだ。身体は絶えず必要に応じてごく自然に適応を繰り返す。

つまり、いい姿勢というものは存在せずあくまでひどく個人的な内的感覚によって環境に最適化する中で、そして生活のあらゆる動作の中でオートマチズムに無意識化に学習されていくようである。無意識に発揮されるそれらの姿勢や動作は本人にとって生きていくために最大限効率化された(エコ化)ものである。周囲の人から見ていわゆるいい姿勢ということと、その人にとって機能的であるということは別であるようだ。その人における機能性が千差万別にある、人間はこのようにあるべきであるという正解はないようである。ボディーケアというものは、いわゆるいい姿勢に向かい矯正していくものではなく(それがどうしても必要な場合も程度によってはあるのだろうが)、個人の機能性を最大化させることであり、それが生きやすさにつながることを目指すのであると話されていたのだと思う。

身体に限らず生き物(有機物)というものは均衡への働きかけがあり、絶えず無意識化では適応を愚直に目指して機能的となっていく。それが崩壊するときに変異や進化または死が待っているのだと思う。ここでいう機能的という言葉は勘違いしてはならないと思われる。それは、あくまでその人にとってそれがあたりまえで、親しみのある動かし方、考え方感じ方になるということである。機能的であるということはあくまで自分が環境をどのようにとらえどのように馴染ませていくのかということでしかなく、自分の中での適応感覚の話である。周りから見ると非機能的に見えるものもあるという話だろう。

しかしながら、均衡への働きかけの中で機能的に自身を世界に適応していく中で、どこか不便さを感じるようになることもある。つまり、適応が崩れ始めるのである。たとえば腰が曲がった歩きをしている老人が腰痛を発症する、足を怪我してかばって歩いていたら健康な足のほうが痛み出すなどである。均衡作用による結果としての姿勢や動作は必ずしも長期的に継続して最大限の満足をもたらすとは限らない。適応とはその場しのぎ性を伴うのだろう。再適応を要する時期が来る時があるのである。身体に限らず心も相補性として傷をうまくかばうようにできている。これは均衡や安定を目指しているのであるが、代償された物事は別の痛みを引き起こすことがある。身体も各局在関係上で相補的であり、心や思考も相補的であり、より上位においては身体と心もおそらく相補的関係であろう。以前に熊谷氏とコラムで話をしたように、心身症や心気症というものはこのような無意識化における相補的な役割として、心の問題が身体の問題として象徴化される場合があるように。

最後に、均衡とは状態であり、求めているはずの安定というものも状態である。状態というものは固定化した硬い物体ではなく、流動的で変化にとんだ不安定なものである。一時的なその場しのぎである。不安定性の流れの中に安定という中庸で無理のない、穏やかで滑らかな状態がある。それを生きているものは絶えず目指す。“とりあえず”“今は”。不安定は悪くない。変化を求めて再適応を求めて安定を求める新たな力になる。不安定が安定を生み出すためには非常に重要になる。ゲシュタルトである。調節、調整、再生、再体制化。それが大事!