新型コロナウィルスの猛威に晒され、目には見えない抽象的なものに対する恐れ方は際立って難しいものである。他方、具体的で尚且つ手に触れることの出来る対象であれば、多少は解決のプロセスまでも思いつきやすいものだ。私のような心を対象として扱う仕事をしていると、「あの人が嫌だ」「この仕事を辞めたい」と言ってくる人はまずいない。自分の性格や生きにくさなど一人では扱いきれないカタチのない悩みをもって来談される。私は不安の性質によって現実不安と観念不安に分けて考えている。観念不安を扱うことは容易ではない。

私の感覚では、人々は新型コロナのウィルスそのものに恐れているのではなく、それによって生じるかも知れない「わたしの未来」に恐れているように感じる。そこには形も確証もない漠然とした不安だけが漂う。ウィルス自体は優秀な医療従事者や科学者の方々が日夜研究と臨床業務に当たられていることで希望を見出し始めた。一方で置き去りにされている「私の未来」への恐怖は、昨今話題に挙がっている【コロナうつ】として周知されるようになっている。「私が罹ったらどうしよう」「生きていくことが出来るかな」「家族を支えていけるだろうか」と。これは精神分析的なコミュニケーションを要する生き方への問いに他ならないと思う。

「何人の感染者が出た」、「人出はどれほどか」というデータだけでは、人々がその意味を見出すことはもはや出来なくなっているように感じられる。第一回目の緊急事態宣言下では未知のウィルスに対する恐怖と混乱によってデータが人々の動きを抑制し一定の効果を示したことになるが、今は違う。データは一人一人を通り過ぎていく数または記号でしかなくなった。新型コロナに疲れ、どこか醒めてしまったのである。今必要なものはコロナの上を警戒して歩いていくための正しい情報(事実)だけではなく、事実と人々を繋げることの出来る個人的価値観(その人にとっての真実、心的現実)の共有である。人は事実そのものに触発されて動くのではなく、己の価値観で動くものだとまざまざと感じさせられている。昨年、感染抑制しなければならない現実(事実)に対してアーティストの星野源さんが【うちで踊ろう】という価値観の共有を図ったように。一見普段と変わらないように見える日常生活の最中にある我々一人一人には、事実を盾にした脅しだけでは道理が通らないのである。

チルドされたデータの羅列ではなく、人に触れる“意味そのもの”に注力することを止めないことが求められている気がする。これまでの平穏な生活において“意味”という問いは各個人が判断を下す主体となることが出来たが、緊急事態下では「だから何」「こうしよう」という意味自体を適切に伝えなければならないと思う。否、伝えるだけでは事足りず伝播させなければ意味がない。精神分析的コミュニケーションとは、内包する意味について互いに共有することを置いて他ない。つまりは連帯であり、誰もが意味を受け取ることの出来るよう十分に咀嚼されたメッセージが人と人をコネクションしていく。そう、繋ぐのは人の価値観である。