精神分析の祖S.フロイトを精神科医の齋藤環氏が概説している書き物を呼んだ。それによると文化は人の欲動の発動自体を抑える働きがあるとしている。人間は欲動(私の言う言葉での欲望)から離れられないが、文化を獲得することで知性の力が強くなり、欲動をコントロール出来るようになるというのである。S.フロイトの指摘によると文化の発展した国では出生率が低下することを挙げています。むき出しの欲動のままに子どもをつくるという軽率な行動をしなくなることや、結婚自体に対する考え方も変わってくるとしている。文化とは完全なる個人主義ではなく、ローカル的に繋がるいわばオタク的素養を含むものだと考えてもらいたい(去勢なき自由の話ではない)。インクルーシブやダイバーシティ―などに反映される文化的うねりであり、LGBTの市民権運動なども新たな個人主義的文化の許容性の拡充の問題である。

確かに個人主義が進むと結婚如何に関わらず多様な価値観が選択となり、個人を尊重する文化と共に個人の取ることの出来る選択肢も増えていく。多様な価値観が国家間の摩擦を緩和し分かり合える素地に着地していく。たてば日韓の摩擦でも韓流文化における交流は絶え間なく、日中においてもアニメ文化における交流は続く。過去の日米摩擦においてもヒッピー文化が日本を覆っていた時代がある。文化的交流が攻撃的または敵対的な摩擦を緩衝しながら、後戻りできないほどの対立を乗り越えていく。「あの国は嫌い」という国家間の対立構造に触れながらも、一個人的には触れあいを辞めない。攻撃的な欲動が直接対外的に用いられずに、一個人の内部の中で吸収さらに消化されていく。これを齋藤氏は個人的価値観に基づく自己検閲機能が高まるのではないかという論を展開している。私もそのように思う。S.フロイト流に説明すると人間の生きるエネルギーリビドーというものがエロス(生への欲動)とタナトス(死への欲動)に流れる時に、タナトスを文化の力を借りてエロス的にしていくことで乗り超えていくというものだろう。

エロスとは接触であり、交流であり、共感である。文化の持つ力とはコミュニケーションそのものに価値を置く。私流の言葉では解決して他方を論破して壊すのではなく、摩擦を解消しながら共生していくことである。ニュースで流れてくるロシアのそれは、ディスコミュニケーションである。関われないこと、話し合いにならないことを前提とした脅しであり、コミュニケーションをしているように見えながらも実際は互いのコミュニケーションを分断している。分断とは正にエロスに反するタナトスの支配である。

ウクライナは必死にエロスに語り掛ける。対話を求め、投降したロシア兵に500万を報奨し恩赦すると発表、捕虜から家族へのメッセージを送り、国連で連帯を呼びかける。地球という規模で見たエロスとタナトスの葛藤であり、エロスが勝れば協調や連帯に向かい、タナトスが勝ればより広域な意味での死が訪れる。それは第三次世界大戦へと繋がる可能性を秘めている。人事ではない。死を恐れなくなった時にタナトスは暴走する。今ロシアの上層部は自分の死を惧れているだろうか。非論理的で感情的であることをメディアは懸念しているが、それは冷静な判断が出来ずに玉砕覚悟で世界を破壊するつもりなのではないかと危惧しているのである。彼らに人の心が戻り、死を悼み、死を惧れる余裕があるようには見えない。彼らが現実の我々と同じ視座に立ち人の死を自らの死に同一化する想像力を失っていないかと不安に駆られる。

重ねるが、文化とはローカルな価値観の結びつきであり、自分を他者に同一化させながら繋がりを構築していく。文化とはコミュニケーションすることに価値を置き、極めて鋭い弁別の精度よりも素朴な類似点の模索により行われる。素朴な類似点に対する同一視の最たるものが、“私は人間、あなたも人間”というような文章にしてしまえば極めて陳腐になってしまうが生命としての連帯に他ならない。その視座を失ったとしたら、地球生命共同体としての価値を失ったことを意味している。

齋藤氏は文化と文明の違いについても述べている。文明とは科学技術的なもので文化を人文的な知識全般を指すとしている。文明の発達は利便性や効率性へと進み、軍事産業や大量破壊兵器などはその血路である。そこには血の通わない技術的革新があるだけである。そこには善悪の判断という倫理的価値体系は存在しない。それを担うのは人文的な知識全体であり、文化の役目である。S.フロイトの先見の明はそれを見ていた。「文化の発展がもたらすものは、そのすべてが戦争を防ぐように機能する」と述べている。文化を置き去りにした文明に未来はないことは明らかである。齋藤氏は文化の発展のもたらすものの一つに個人主義を揚げ、「他者の個人的領域を侵害する暴力」に対して抑制的に機能する可能性を指摘している。国家間の問題ではなく個人が個人の価値観の中で物事を咀嚼して捉える力が、極めて高い摩擦を緩衝していく。違いを受け入れていく、良いところと悪いところを知りながら繋がり続ける。ディスコミュニケーションを乗り越え新たなコミュニケーションを育む。文明に基づく優位性に則った誤った判断は多様性を許さず文化を崩壊させる。

ロシアが恐れていることはロシア国民が個人主義の名のもとにめいめいの考えを抱き、豊饒とした(ひとつにまとめることができない)人文的な文化がそこかしこで展開されていくことである。帝国主義的発想の崩壊であり、それを防ぐために言論統制をおこないディストピア化していくことにやっきになっていく。以前にも書いたが、ディストピアにおいては“わかりやすさ”のみが優先され、議論の余地なく烏合の民として一つの方向へと濁流のように流されていくことを期待する。その方が統制統治しやすいからである。そこに住む人々は個人的価値観を置き去りにした駒、群衆である。

昨日パラリンピックのIPCパーソンズ会長の挨拶に極めて強く共感する。多様性文化に赦しあいと尊敬の精神が宿り、争いを超えて競い合いの中に自身の喜びを見つけていくお祭りである。自分と他者の健闘を祝うお祭りなのである。パーソンズ会長の勇気ある発言は中国では検閲対象となったとニュースになった。多様な発言がまた許されず、ディストピア化していった。対岸の火事ではない。考える力を育てる、生きる力を育てるとは生半可なものではないと思い知らされる。伝えられているものだけではなく、伝わってこないものに問題意識を持ち、知りたいと希求し、知らなければならないと意志を持たなければならない。自分に責任をもつことに思考的自由が訪れる。考えることを辞めてはならない、それが責任である。