リビングに赤ちゃんが出ていけないよう柵が設置してある。最近つかまり立ちができるようになった彼は手すりにつかまり泣き声を上げる。夫婦が食事や休憩をする間もなく彼は我々のほうを向いて恨めしそうに何度も声を上げる。それを見ると強制隔離をしている大人の都合の権威性を意識させられ申し訳なく思う。子どもは目に涙をためて繰り返し唸る。罪悪感とともに親を求めるその愛らしさに負けて、抱っこしながら食卓に戻ることになるのだが、夕食が鍋や汁物の時には少し困る。抱っこしながら食事をするのは職人技だと気づかされる。素人の僕では大量の食べこぼしがテーブルと衣類、床に落ちる。

一度抱っこされた子どもは高い高いが好きで、ジャンプをせがむ。夕食どころではないが数回そうしてやる。もちろん数回では収まらないのであるが。最近テレビの調子が悪くて買い替えた際、インターネットテレビにしたいと妻が申し出たため、リビングにはそれが置いてある。妻が立ち上がるとシナプシュというユーチューブをつける。不思議な格好をした子ども3人が単純で軽快な歌を歌って踊る。子どもの視線がそれにくぎ付けとなる。

僕は柵の中に子どもを慎重に置き、少し遊んだり歌真似をしてやると、興味は完全にユーチューブに向かう。食卓に戻り冷めた鍋を掻き込む。

夫婦でユーチューブの用い方を話し合う。もうそれなしでは生きていけないし救われた思いがしている。それでも受動的なアミューズメントが増えすぎてしまうと、自ら創造して遊ぶ機会が減るのではないかと専門家かぶれの懸念が生じる。とどのつまり彼が楽しませてもらう体験と彼が楽しむ体験との間に、主体性と受動性の難しい問題があるのだと気づかされる。おそらく僕は楽しませてもらいすぎることに不安があり、自分で自分の身体を用いた体験をしてもらいたいと思うのである。幼い子どもの喜びは身体に宿ることは重要だと思う。

主体性の重要性について色々考えてみるものの、言葉の獲得も身体感覚の獲得も、以前のコラムで書いたと思うが外部刺激から自分を再発見するプロセスなのではないかと思う。まずそこに誕生するのが外部刺激に対して注意を惹きつけられ反応をするのである。次第に反応はまとまりを帯びて呼応となり、模倣となる。そして外部刺激に誘発されるわけではなく、独自に音を出したり手足を動かしたりするようになる。そこではたいていが常同性のある活動になるような気がする。単純な刺激反応という水準から、呼応性、模倣性、そして自ら喚起する常同性へと。主体的な常同動作は決まった運動をすると決まったことができるという因果関係を生み出し、自らの力を把握するようになる。何かができるという実感が持てると、夢中になって物をつかみ、離し、つまみ、舐めている。外部刺激に誘発されずに自由にそれを繰り返し行う一人遊びを行う。このような考え方はピアジェの循環器についての発達理論を見るとよくわかる。それをみて大人は、成長したなと思うのだと思う。なにせ、それは楽しませてもらっている体験ではなく自ら楽しんでいる体験に見えるからだ。

ユーチューブは大人が作り上げた創造世界なので刺激がいささか多すぎるような気がする。そして身体性はやや薄められてしまう。子どもの求める刺激というのは親子の関りにおいて流れる身体性を伴う活動に他ならない。つまり、大人をいらだたせ困らせるものである。ある時は冗長的過ぎて長く、ある時にはせわしなく落ち着かない。均一ではない身体活動に呼応する時間を過ごしているような気がする。ユーチューブは子どもを黙らせ、飽きさせず、夢中にさせることが得意である。子どもに流れている時間には関係なく、瞬時に異なる時間の流れに子どもを誘導する。それは興奮というものだろう。たぶん子どもに流れている時間に合わせながらも、早めなのだと思う。子どもの世界の時間や動きは自然界の中にあるような気がする。動物もものすごく意識水準を下げてゆったりとした数時間を過ごしていながら、必要時には過覚醒となり注意がパッパッと過敏に切れ変わる。

夫婦で話したこととして、結果は月並みなのだが薬として用いようということである。良薬にも毒にもなるものとして、子どもの生きている時間に合わせる部分と大人の都合に合わせてもらう部分を様子見ながら過ごしていこうというものである。「さんざん考えて結論がそれか」と怒られそうであるが、生活とはそういうものであると思う。