先日福祉施設の開設にあたり事業運営の相談に来られた方がいた。非常に熱意のある方で、地域の役に立つアイディアについてたくさんのことを考えてこられた。地域における問題意識に目を向け、その改善のために心骨粉砕することは大事なことである。事業を起こす目的は人それぞれ異なるが、したいことをするのではなく求められていることに呼応するようにできることを模索していくほうが個人的には好きである。中にはしたいことで事業の成功を収めることができる人もいるが、私としては人を想い、考え抜いた上で自分にできることに不安と期待をしながら取り組むことを好む。そこでの会話の中でぼやぼやと連想していたことを書こうと思う。

それは目的と手段は違うということである。言葉にしてしまうと極当たり前であるが、意外と混同されることがあると思う。たとえば、心理療法というものは話を聞くことが目的ではない。話を聞くことを通して何か重要な物事に向き合われていく内的体験が目的である。当然話を聞くという方法は手段である。ある特定の困難さを抱えているクライアントにおいては話を聞かないで閉じていくことが治療的意味を帯びることになる。つまり話を聞かないことが支援となる、安定となるのである。心理臨床家はなぜ自分がその人の話を聞くのかについて理解しなければならない。聞くことが目的化してしまうのは、友達や家族とさして変わりはない。専門家が対価を得て何か行動をするまたはしないという時には、判断が伴う。

過去に、医療福祉大学の永井洋一教授も似たことを話されていた。体に触れる、運動する、レクリエーションをするのは手段であって、アセスメントにのっとった目的の改善に努めるのであると。青陵大学の小林准教授も同様のことを何度か話し合ったことがある。

運営しているユニコーンでもそうである。学習やスキルトレーニングを終えた後には、プレイの時間が設けられている。これは楽しい遊びの提供が目的なのではなく、プレイの中でコミュニケーション感覚がどのように育まれていくのかを見守る手段として設定されているのである。遊ぶことが目的ではない。それならば療育施設に来ないで公園に行ったほうが良い。遊びを通じて生きにくさに繋がっているであろう何かしらに、アプローチをしていくのである。つまりは表面上見えている行為ではなく、目的として何を意味して目指しているかという含蓄があるのかないのかでは深みが異なる。

話をややこしくしてみたい。食事は一見すると生きる目的ではない。食事は生きるための手段のように見える。でも食事をしないで生きていくというのは手段とることができずに(経管など特殊な栄養補給は抜きにして)、通常は食事をすることには選択が残されていない。だとすると、人間にとって食事は生きていくことの目的の一つであると考えていいように思える。生きるために欲求が賦活される。

ただし、食事の内容は手段である。端的にはサプリメントは食事なのかというところだ。レンチンだけのコンビニ弁当が続けば(私もよく食べるが)それは補給を目的としていて、カロリーメイトでは時間短縮と効率の良い栄養獲得が目的となる(それ以上に美味しいけれど)。象徴的に母親の作る温かなご飯は大事であるといわれるが、それは親子関係または夫婦関係の健全な維持に不可欠なものとして、愛情の代わりに語られているのである。何か大事なものをはぐくむ手段である。

自分に差し替えてみる。なぜ私は病院を辞めてわざわざ事業を興したのか。大そうなものではないが自分の信念や臨床観を基に自由に活動が出来る環境を獲得するためである。強欲な我儘である。ただ、これが目的である。当たり前だが誰も私がしたい仕事を準備してくれることはない。そんなに社会は親切ではない。新しく独自性があり、地域に期待されることで、利用者にとって使用するメリットがあり、そして自分がワクワクする物事がしたければそういう自分で事業化するしかない。せっかく死ぬまでは何かができると考えるならば、少しでも心が揺れるものをしたい。人間に与えられている時間は思いのほかないのだなと感じている。目的のために本を読み臨床をして人と語り合う。それが私の手段(方法)だろう。目と手、見つめる先へ届くよう、手を動かし行為する。殊更、私は人と話をするのが好きである。「話をしようよ」「聞かせてほしい」「これ面白いでしょ」と要請される側の人には迷惑なことかもしれないので、この場をもって反省を伝えなければならない気もしている。我を通すと好かれたり嫌われたりと大変だけれど(たいていは後悔)、あと2年はこの生き方を続けるつもりだ。

なぜ2年か。それは仕事に対する目的を変えるつもりだからだ。当然その手段も変わる。そういうものかな。