社会心理学者のル・ボンの群衆心理について、フリーライターの武田砂鉄氏が取り上げていた内容が面白かった。ル・ボンは、人間はどのようにして群衆となるのかについて検討した学者であり、群衆の中に置かれると人間個人の理性や合理性を欠いていくという。たとえば、世の中の空気という要請によって個人で物事を考える力が弱くなっていくと言います。多くの人がそのように思っていることならばそれが正解だろうと、自分で考えることも主張することも反論することもやめてしまう。武田氏はこれをコロナに関連付けて説明していた。みんながそう思っているし、自分も我慢しているのだからみんなもそうするべきであるという世間の空気である。群衆心理が相互監視を強めることで自粛警察などが登場する。
著書の中で取り扱われていたデータでは、2020年大阪大学の三浦麻子教授の国際調査によると、「新型コロナウィルスに感染した人は自業自得と思うか」との問いに、「そう思う」と答えた日本人は全体の11.5%であり、米国1.0%、英国1.5%、伊国2.5%、中国5.0%と比較して異常に高いことが分かった。「全くそうは思わない」と答えた日本人は30.0%で他国が60~70%であることと比較しても高値である。そうした世の中の空気に対して、敏感なのである。ここについては掘り下げないが、たとえばR.ベネディクトの「菊と刀」を読むとその理由はわかるであろう。去年夏、文化人類学者の郷堀ヨゼフ教授と仕事でご一緒した際に教えていただいたのは、明治時代に国家という言葉が日本に輸入され入ってきてから個人という言葉が登場するまでに20年以上かかったという事実である。外国においては個人があって国家があるのであるが、日本では個人という言葉なないまま国家という言葉だけが独り歩きしていても問題にならないということである。私の拙い解釈では、外国においては個人が神との罪の意識の中で行動統制しており、同じような価値観のものとコミュニティー感覚が養われ、ひいては社会や国家へと繋がる。個があって国家があり、個と国家はどこか緊張関係を生むのだと思う。一方日本はお隣さんの視線の中で行動統制することで世間の目が価値観となったために、国家という言葉が輸入されたとしてもイメージの上に登場しなかった、個人という言葉が対で登場しなくとも困らなかったの
ではないだろうか。これはよくよく考えると奇妙なことで、妻という言葉が輸入されたにもかかわらず夫がいない、右があっても左がないという類のものである。重要なのはコミュニティーや社会や国家ではなくお隣さんとの共助であり、村八分にならないことこそが重要であった。朴訥とした素朴な先祖供養が古の信仰の対象であり、家柄を重んじ先祖に顔向けできないことはしないというような恥の文化である。コミュニティーは作るものではなく、出来上がったところで如何に馴染むことが優先されるような印象である。群衆心理ということに話を戻すが、群衆とは何だろう。武田氏は次のように説明している。大勢の人がいるだけなら「大衆」や「集団」であり、そこにいる人々を「群衆」とは言わない。群衆とは特定の心理作用をした人々であり、意識的個性の消滅や感情や観念の同一方向への転換と説明している。群衆は必ずしも大勢でなくとも集団でなくとも成り立つわけであり、集団を構成する人々の考え方や感じ方が統一され濁流のように一つの方向へと向かっていくことを指している。そこには個人的価値観はなく、あるのは流れだけである。いじめの心理もこれで説明できる部分があると思われる。例えば加害者個人とひざを突き合わせて話をすると実に話の分かる人間であるのだが、群衆の中では心ない言動を容易にしていたりするのである。群衆になると価値判断体系が著しく低下する、または転換しているということになる。
「いじめは絶対やめましょう」というスローガンやプロパガンダは極めて重要でありながらも、効果的ではないということである。なぜならそれぞれの個人は「そんなことわかっている」わけであり、なぜ人は群衆になってしまうのか、なぜ人は群衆に惹きつけられてしまうのか、なぜ人は個人のままで思考判断する力を群衆の中では維持できないのかという、人間の性について検討しなければならないと思うのである。個人と群衆ではそもそも運動機制がまるで異なることを念頭に置く必要があるのである。
ではあまり効果がないように思われるがスローガンやプロパガンダが極めて重要かというと、“それしか手がないから”“倫理的で間違いのないことだから”ということと思う。モラルは否定のしようがないから、“やらないよりやったほうがいい”ことには変わりがなく、別の言い方をすると“やらないわけにはいかない”“そういうことを伝える決まりだから”という“それはそういうもの”として用いられているように感じられる。つまり人がなぜ群衆になるとそのような卑劣なことをしてしまうのかという核心に迫ることは実に難解であり説明することに苦労するので、「正しいことを正しく教えよう」という発想なのではないだろうか。そもそも教科学習や生徒指導で忙しい中で、半日や一日かけて人間とは何かについて被害者や加害者と真剣に検討している暇などないわけ
である。どうしても効率的または効果的に教え込まなければならず、「わかりやすさ」を好む土壌があるのではないだろうか。どんなに重要な物事も「わかりやすさ」の壁には勝てないのである。必要なのはハウツーであり、要約や概要を掴むことであり、わかりやすくなければどれだけ重要なことも相手にしている暇はないのである。但し、「わかりやすい」とは自分で物事を咀嚼して考えないということであり、一瞬で要点を掴めてコツがわかるのである。それに馴れてしまうと簡潔であること自体が価値になってしまう。武田氏はよりわかりやすく、より手ごろで安価になってしまうことで、「よくわからないもの」を目の前にすると人間は避けてしまうようになると言っている。そしてこれをディストピアと表現している。効率化と単純化のスキルばかりに価値が
置かれる社会の中でわかりやすくないもの自体に価値があり、仮にそれが完成形であったとしても、「これは間違いである」「よくわからない戯言だ」「専門用語を用いるな」「伝わるように書け」「わかりやすく説明しろ」とクレームが来る。書き手や話し手の問題だけではなく、読み手の能力にも依存している前提をすっ飛ばしてしまうほど、世の中はわかりやすさに最たる価値を置いている証拠である。先程の話題に戻ると個人と国家、人間と群衆、コロナやいじめについて連想してきたのであるが、どれも極めて難しく複雑で難解な物事である。このようなことを真剣に考えたいのであるが、「いじめは絶対やめましょう」「俺は我慢しているのに何で飲みに行くんだ。飲食店は閉めろ」など安易でわかりやすいメッセージに負けてしまうのである。いいか悪いかの判断はさておき、ポピュリズムやモラルハザードという現象もどこか通底するところがあると思われる。私はどこか分かりにくさの中にも価値を検討するべきと思うのである。集積された生の文章の中のどこが大事なのかは読み手に頼るわけであり、分かりやすさを追求しすぎるあまりに重要な点が削除され、分かりやす過ぎて(または御もっとも美しすぎて)反論の余地のないスローガンやプロパガンダが完成してしまう。読み手である人間はもはや何も思うことはなく、「はあ、もちろんそうですよね」と受動的に受容する。考える力や生きる力はどこの国の誰のためのものだったかと疑問が湧くのである。
多様性を認め合うユートピアの訪れはなく、わかりやすさの果てに単一的で価値観が押し寄せるディストピアの訪れをみる。報道番組はどれを見ても代り映えせず主張しないことを主張しているようにみえ門切り型のやり取りに終始する。賛否ともあれビートたけしが何かしら主張すると番組降板となるわけである。新年のスポーツ新聞には本人も知らない結婚発表がなされ、もはや情報とは何であるという信頼性に頼ることなく、視聴者の顔色を窺い、購買意欲の喚起に躍起である。わかりやすいもの症候群である。
世の中にはわかりやすくて便利になるものと、分かりにくいけど諦めてはいけないものがあるように感じる。「いじめは絶対やめましょう」と子どもに教える大人が会社どのように振る舞っているのか考えてみる必要があり、そこに人間的な矛盾の奥深さがある。人間が群衆になり群衆が人間になるとき、それは誰にも訪れる。人間が矛盾を起こすときには何が生じているのか真剣に考える必要がある。前者は「運動的」であり後者は「思索的」である。ル・ボンが言っていることは群衆が悪いということではなく、群衆が有効で必要とされる場合もあるのであるが、どのような場合においても群衆に埋もれてしまうことに自覚的であることが重要であると思う訳である。