ユニコーンでのカンファレンスの一幕である。勉強したがらない生徒にどのように支援したらいいのか、将来の夢があり勉強しなければならないことは分かっていながら勉強できない自分自身に苛立っているようであるという話しである。そのようなカンファレンスの内容は珍しいものではなく、保護者の期待や学校の希望、子どもの思いなど様々なものが支援者にとって無視できないものとして投げ込まれるわけであるが、支援者はそれらに対してどのようなスタンスを取るべきなのかという問いである。

よくあることとして学習の重要性について子どもに切々と問うこと、やや強引に学習支援を勧めることなどよくあることである。ただし、よく考えてみたいのであるが、学校と同じ価値観で子どもにそれらを強化していくことがいつでも適切なのだろうかということである。綿密に練られたカリキュラムを熟してある程度の成績を取得していくことは、獲得しなければならない基礎的な知識と思考力の土台を作る事であり、典型的で一般的な大人モデルの構築に重要である。これらをグラドゥエーションしていくことで、ある程度社会的に耐えうる存在となることは確かなことと思われる。ただしそのような大人モデルに十分に馴染むことが出来ずに学習への強い抵抗感を有する子どももいることは事実である。そのような際に、教育とは違う福祉ならではの価値観が必要になることもあると思われる。それは子どもにとって勉強というものがどのような心的イメージを有しているのかということであり、勉強を通じてどのような経験をしてきたのかという個人的体験を把握することや、何を大事として生活してきて、何を幸せな物事として同定しているのかということを知ることではないだろうか。そのようなその子ならではの価値観を理解し合う体験が、典型的で一般的な大人モデルとは異なる、その子らしい大人モデルの構築に繋がるのではないだろうか。画一化できないからこそオリジナルのモデルが必要となり、個別の指導計画にのっとって特別支援教育をしていく、または療育していく礎になる。

つまり趣味の話を丁寧に傾聴することや嫌なことへの愚痴を十分に聞いて整理することなど、一見すると他愛のないような内容にこそ、その子らしい生活の一端や価値観が紛れ込んでいるように思われるのである。どのようにして勉強してもらおうかではなく、なぜどの子はそのような行動をとるのかということに思いを寄せて見つめていくことで、その子にとっての価値体系が理解され共有できるようになると思われる。そのような理解や共有の無い段階でのいかにして勉強してもらうかという問いは、その子らしさではなく、家族の思いや教育のニーズにのみ呼応するような偏狭な支援しか提供できないような気がする。

福祉施設として子どもに寄り添うということは、そのようなオリジナルを模索するような贅沢を与えられているわけであり、同時に重たい責任を負っているのである。だからこそその子らしさというものに徹底的に向き合う必要がある。オリジナルであれば何でもいいのかという問いも生じるだろうがそれも異なる。個別化の先に社会的な適応を想定していることが重要であり、個別化のための個別化は何もしていないことと同義である。その子らしさという画一的ではない支援を想像するにあたり、その先に社会的な生活を見通す必要がある。社会的な適応を目指すのであれば画一的な物事を教えた方が効果的で合理的であるのであるために、ついつい教えてしまいたくなり指導してしまいたくなるのであるが、それは効果的であるとは限らない。

その子にとって効果のあることとは、周りの大人にとって意味のあることとは限らず、あくまでその子にのっとって行われる必要がある。つまりはその子の『法』というものがあり、子どもは何らかの自分の『法』にのっとって動機づけが喚起され動いているのである。その『法』を理解せずに間違っている、直しなさいと指摘や指導をしてしまうと立法者である子どもは嫌がるのである。その子の法体系を理解し、その法体系の中で一緒に関わることでもう少し社会的に承認されうる『法』というものに変遷していくことを望むのである。勝手に他国の法を変えてはならず、尊重して付き合う必要があり、それが傾聴である。郷に行けば郷に従えではないが、その子の生きにくさに繋がっている可能性のある『法』を社会的にさせていくにあたり、やはりなじむ時間が重要になると思われる。その子を置き去りとした支援をしないためにも、自分が行っている物事が一体誰のためになっているのかを忘れないことが問われていると考える。