当会世話人の長尾先生の良質な講義後に幾つかの連想を記したい。計算の躓きについて数学を専門とする立場としてお話ししてくださった。足し算にも合併、増加、求大という思考方法があり、引き算にも求残、求差など様々な思考方法があり、という話題でその詳細をお聞きになりたい方は長尾先生に尋ねることをお勧めします。先生はこれを「色々な表現」と語られ、計算というあたかも平板で無機質なアルゴリズムの中に、子どもそれぞれに思いめぐらせる思考体系があるのであると教えてくださった。計算式を教えるのではなく、子ども達が考え方を模索する作業に共感を示し指導なさっているとのことだった。

そのような現象をルビンの壺などを用いながら、計算とは一つの答えを求める作業の話ではなく、様々なものの見方がある(または必要とされているものの見方を知らないだけである)という文脈で語られていた。私はどこかロマンチックな想いに浸って聞き入っていた。ある種の発見のような形で子どもが「このような見方があるのか」と驚きと共にものの見方を獲得していく。私は思考の転換というつまらない表現しか出来ないが、計算の教えてくれるものは、様々な形で物事をまとめたり崩したりしていく思考の転換の柔軟性(ルビン的に、錯視図形でいうところの視覚の補正機能)なのではないかと考えていた。

計算とは概念であり、数は言葉と同じようなsignでしかない。Signは象徴であり、象徴される側にある“それそのもの”とは異なる。子ども達が表記の問題で躓く時や集合数や順序数などで躓く際には、具体“それそのもの”と抽象“数sign”との対応関係の整合性を保つことが出来ないことで「わからない」が生じるのではないかと思うのである。だからこそ、絵や文章で出来る限り日常生活上で起こり得る設定の下で計算を学ぶということで、具体と抽象のバウンダリーに橋をかけてやるのだと思う。一足飛びでジャンプして抽象的世界に登場できる子どももいるだろうが、橋を叩きながら慎重に渡る子どももいるのである。

抽象“数sign”とは当然イメージの世界であり、誰もが当たり前に歩いていくことの出来る場所ではない。イメージ世界に登場するためには好奇心と勇気がいる。新しいよく分からない世界に対して抵抗感を持つ子どももいるだろう。怖がらせないことが重要であり、そのために慎重に橋を架けてやるのだと思う。「なんでわからない」と怒る大人は子どもに無理やり背中を押しやりジャンプさせようとしている訳であり、すくんでうずくまってしまう。そうするとひょっとしたら計算が嫌いになってしまうのかもしれない。

そのような話になると講義後のブレイクアウトルームディスカッションでは、そもそも“教えること”と“育てること”の違いについて検討する必要があるのではないかとの話題になった。ここに着眼した大学院生の素朴でありながら実に質の良い投げかけに驚かされる。河合隼雄先生の言葉を援用したとのことで、教育を分解して考えてみようという発想だという。その相違に関して子どもの主体の座に関する話に展開されていくのだが、私の感覚では、主体的に考えるという行為は先程の具体と抽象を自由に行き来することの出来る力と考える。「自分なりに考えてみる」とは目の前に生じている具体的対象を抽象的なsignの文脈に移行させること、目の前に記載されているsingを具体的文脈の中に出現させることではないだろうか。どちらも今あるものから必要に応じて思考を補正していき新たな文脈作りを楽しむようなものだろう。

「AがBになる」ことは教えられたとしても、それは単なる記号の置換でしかないのかもしれない。そこに文脈を織りなす物語は登場しない。「AがなぜBになるのか」を教えることは、教えているようで実は育てているのではないかと思うのである。意味を問うことに育ちの可能性が宿るという連想に至り、多少名残惜しさを持ちつつブレイクアウトルームディスカッションを終えることになった。私の連想が発表者の長尾先生の意見を外れたものであったとすると、後日訂正していただけたらと思う。