自分には関係のない世界。そう思いながら生きてきた25年間は現代社会の障害に対する考え方なのだろう。

 妊娠中の母親の身体は本当の意味で自分だけの身体ではなくなる。お腹にいる我が子の為に食生活や運動に気を付け出産まで過ごす。「男かな、女かな」と性別が気になり、性別がわかると名づけに悩み、どんな子に育つのだろうか、一緒にどこに行こうかなどと夢や希望でいっぱいだったのを覚えている。2月14日のバレンタインの朝に陣痛が来て産院に向かい、元気な息子を出産した。その時は無事に産まれてきてくれたことに感謝と喜びしかなかった。2か月を過ぎたころからよく入院するようになり、退院しては入院の繰り返し。母親は息子の入院に付き添いばかりで年子の姉は寂しい思いをしたことだろう。あの時はなぜこんなに入院するのか不思議でならなかった。

 10か月検診でかかりつけ医におすわりができないことを指摘され「発達の遅れがある可能性」と話しをされた。すぐに紹介状をもらい検査ができる病院へ。検査をいくつか受けたが脳にも染色体にも何も問題なく、今できることとして発達を促すために療育ができる病院への通院が始まった。当時は病院に行って適切な療育を受ければ全て元に戻ると本当に信じていた。育児休暇明けの仕事復帰が迫る中保育園の入園準備と息子の療育。息子の現状を入園する予定の保育園に説明し理解を得られたのでどうにか姉と同じ保育園に通わせることができ仕事復帰を果たした。これで何も問題なく生活することができるだろうと安心したのもつかの間で、のちに保育園より加配の手配が難しいと息子の退園を迫られることとなる。

この時初めて自分自身が楽観的に考えていたことへ愚かさと社会の障害に対する冷たさを感じることとなる。

当時は介護職として施設・訪問の業務に従事しており障害者の方と接する機会も多く、人より早く息子の障害を受け入れられていたと思っていた。でも現実は甘いものではなく日々の生活や見えない将来への不安を募らせていく。息子の療育とフルタイムの仕事にばかり集中してしまい、大切な娘のことをほったらかしにしていた時代もあった。

子どもの成長過程に合わせて困りごとも変わり、以前までできていたことができなくなったりと生活スタイルも一変した。母親になって10年たったがまだまだ出口の見えない迷路に迷っている。

 

小西美樹