よく患者に「話を聞く仕事って大変な仕事じゃありませんか?」と聞かれる。そう聞かれるたびに私は「好きでしている仕事なのです」と答えるようにしている。これは新人の時にふと考え付いた応答のテンプレートであるが、決して適当な切り替えしではなく真実ではある。先日の患者にもやはりこの手の質問をされてふと思ったことである。「大変じゃありませんか?」という問いに、本来ならばYESかNO、大変か大変ではないかで応答するほうが筋であるが、「好きでしているので」という応答をしていることに気が付くのである。
そもそも大変とは何かということであるが、患者が私に聞いてくる「大変ではないですか?」という問いは、どこかしら「私の話を聞いて苦痛ではないですか?」というものや「私という存在は邪魔ではありませんか?」という空気をはらんでいると思う。意識的にはそこまで深い意図なく聞いてみたというものや、話のつなぎに言ってみたくなった程度のものであるかもしれないが、私としてはどこか無視できない質問の一つになっている。人の話または私の話を傾聴して苦労ではないのか、疲弊しないのかと聞きたいのだと思う。患者の心は目の前の支援者に私はあなたを頼ってもいいのだろうか、自分を預けすぎてあなたは困ってはいなかろうかと心配しているのだろう。だから、大変とも、大変ではないとも表現することはできない。
大変であるという言葉を用いると、あなたの話を聞くと負担を伴うという意味をはらみ、大変ではないという言葉を用いると、これほど困って話をしているのにきちんと聞いてくれていないのではないかと思われるのかもしれない。新人のころから使用している「好きでしている仕事なので」という応答は、そのように考えてみると今更ながら悪くはない応答のように思われる。大変か大変ではないかという軸ではなく、好きでしていることなのであるということだ。横の軸を縦軸の話にずらしてマトリックスを構成する。
患者はX軸(あなたは私を大変と思うかどうか)について、私はY軸(ここでお会いしてお話を聞くのは望ましいことである)について話す。応答できているようで実は少しだけすれ違うところが興味深い。X軸では患者から相談者に「私の存在」が投げかけられ、Y軸では支援者から患者に「話をする行為(心理療法)は価値があることだ」と伝え返される。心理療法とは患者から問われる「私の存在」について支援者個人の見解を述べることを目的としているわけではなく、「あなたの話す行為やその内容には価値があり、それを聞く行為は重要なことだ」とふたりの行為の重要性を共有していくことだと思う。
X軸の話に素直に答えてしまうとある種の依存保障関係である。そういうことが必要な場合があることは確かだが、通常は「私の存在」の証明を支援者が快刀乱麻に大いなるやさしさと愛情をもって証明することが求められているわけではない(重ねるがそれが重要な時はある)。心理療法とは何か。患者が「私の存在」の証明を自らの手で行っていく作業である。自分を理解すること、自分を受け入れること、悲しむこと、怒ること、諦めること…それらを誰かによってしてもらうのではなく、自らの手で行うことを目指すのだと思う。悩み事に対して過去の受容にしても過去の決別にしても、今はいじらないで見ないようにしておくことにしても、支援者が先頭を切ってそれを決定することではない。そのような患者の内的営みに関わる態度を支援者として望ましいと思う、そのように伝え返す。それ以上でも以下でもない。だから大変とも大変ではないとも言えず、「好きでしている仕事なので」と返す。教科書的な御作法では「なぜそのような質問をしたのですか?」と内省を誘うのだが、ちょっと通常の生活体験から解離している現実離れした応答で冷たい気もするので、私は好まない。
好きでしている仕事と書いてしまったが、好きであるからこそ心底嫌になることがよくある。可能性も、限界も感じる。それは自身に対しても領域に対しても。今度は患者から「好きか嫌いか」と問われたらどのように返そう。自分でもよくわからない。そういう次元にはない気もする。面接終了時間が迫っていたら「難しい質問ですね」と意味深な表情をして終わらせるような気もする。
親切に応じるとすれば「私にとって、今はそれをしないわけにはいかないのでね」というあたりだろうか。未来はわからない。明日着ていくジャケットも、明後日の夕飯さえもまだわからない。未来は置いておいて、今ここで行われていることには価値があると考える、それを伝えることで精一杯かな。