子どもが毎朝4時ごろに目を覚ます。さすがに眠い。隣で目を覚ますとハイハイやつかまり立ちをして朝から元気いっぱいだ。寝室でまだ眠たそうにしている猫のジジにちょっかいを出して嫌がられている。ジジは大あくびをしてから二度寝をするために別室に向かう。
リビングに向かいおむつを替え、朝のミルク一杯を飲ませる。僕はいつまでたっても眠い。子どもはジャンプや抱っこをせがむ。僕も朝の一服に行きたいのだが…離れると泣く。「あー吸いたい」。いずれ我慢できなくなると妻に預ける。自分のペースで生きることができないことは本当につらい。子どもが生まれるまでは7時に起床して7時30分に朝食をとらずに家を出るようなズボラな生活をしていたので、慣れてきたとはいえ疲れる。
神様に今日一日仕事しているのと子育てしているのどっちを選ぶと聞かれたら少し迷ってしまう。子どもは可愛いのだが。実際は今年仕事を減らして多少対応できるようにしているのだが、自分のペースではない時間を過ごすこと、そして子どもから大いなる期待や要求が寄せられることに一つ一つ応じていくことは想像していたよりも骨が折れる。
子育て論は子どもの成長発達に重きが置かれている気がするが、本来は大人の資質が問われるべきではないか、育てる側の能力が語られるべきではなかろうかと最近思う。子育て相談事業は貴重だが、育てる側の能力に支援をしていく仕組みが構造的には欠けているような気がする(知らないだけでたくさんあるのかもしれないが、そうであるのならば機能していないのかもしれない)。通常は十分に年齢を重ね大人になったらもう教えることはない、子どもを独自の力で育てることができるはずであると社会から一任されるのだろう。
でも、育てる側の能力は年齢で測られるものではないし、学歴や職業や年収も関係はない。それは子どもをつくる能力とは分けて考えられる必要がある。生態学的成熟と社会的成熟と精神的成熟は別である。子育てに耐えうる精神的成熟について、僕自身ができているか甚だ疑問である。おそらく不足している。妻は星の数ほど僕の子育てへの資質に不満を抱えているのであろう。自身に思うことは、いかに未熟なものが未熟なものを育てているという認識を強くもつべきかである。精神的成熟が完成してから子育てをしたほうがいいという流れではなく、未熟であることでどうあるべきかを考えることが重要と感じる。
子どもがなかなか寝ない時もあれば食事を食べてくれない時もある、仕事に行く直前に衣類を汚されたりもする。こちらの思い通りにならない時に、未熟な親として苛々もするのだが諦めを知り割と早々に子どもに沿うようにする。妻からは「しっかりやって」と何らかのプレッシャーはかかるものの、投げ出すわけではなく「むりな時はむり」「仕方がない」「まあ、なんとかなるよ」と思うのである。端から見ると責任放棄に見えるのかもしれない。もちろん何度か工夫して挑戦はするのだけれど。
命を守る母親というものは、父親の想像をはるかに超えているのだろう。このようなスタンスや発言にはどこか無責任さを感じるのは当然であり、我が家もその他の家庭同様にそれは色々とある。母親は子どもの命を守る、では父親は何ができるのだろうか。実際のところよくわからない。よくわからないが最近意識していることは、子どもと母親を離してやることだと思っている。風呂でも食事でも寝かしつけでも、何かしらしていると母親は母親ではなくなる。たとえ一回一回が10分だとしても母親時間を減らす。母親が一時でも母親ではなくなり一人で携帯をいじり、薬局に行き、ドライブをして、友達に会う。母親がずっと母親をするといいことがない。子どもにもよかろう。そんな気がしている。「わかっているじゃない」という励ましのお便りと「言う割に全然足りてないのですが」というクレームのお便りの両方がポストに投函されていそうである。送り主は確認しない方がよさそうである。
このような仕事をしているとしばしば、「先生は子育て上手そう」「先生がどういう子育てしているか見てみたい」と言っていただくことがあるが、断言できることは一つ。冴えない中年男性が日々困りながら粛々と生活をしているだけである。見るに値しないつまらぬものだ。素晴らしい何か、秘訣やコツはない。あるのは眠気と思い通りにならない苦悩との戦いだけである。理論と実践は違うし、学問と臨床も違う。それらを繋ぐのは、あくまで人の力。全然上手くはいかない。最近たばこの量が増えたな。食欲も減ったし。入眠がすこぶる悪い。子育ては未熟さが浮き彫りになる。鎌倉彫の先生をしていた祖母を思い出す。「ここは彫らないほうがいいの」「彫らないほうがいいところを彫ってしまったわ」。たまには遠くに眠る祖母に手を合わせる。「僕はできもしないことに手を出して一丁前に彫り始めています。彫っていいところと彫ってはいけないところの違いもよく分からないのです」。祖母は厳しい人だったので慰めてはくれないだろう。「能書きはいいから目の前のことをやりなさい」。力持ち、糸まっすぐやカブトムシ。昔、祖母が僕にカブトムシの彫刻を彫ってくれたこと、その添え書きを思い出す。非力。