長岡市教育委員会の大久保先生の座談会後、幾人かの若手でアフタートークをしていた。

そこでは様々な妄想的な連想が語られ、触発された。

 

「ゲームをするしない、それが問題だ」。

あーロミオなぜあなたはロミオなのだという有名な言葉が思い起こされる。

そのようなエモーショナルな話は分析や解釈にはあまり役に立たない。

子どもやその家族や支援者は大抵エモーショナルになる。

エモーショナルな交互性が賦活されると大抵は厄介なものになる。

そう、このように難しい問題を前にした人間関係はネガティブなエモーショナルな渦の中だからだ。

こういう時にはラディカルに考えるとうまくいく時がある。

「子どもがいる」「ゲームがある」という対象としてのゲーム、モノとしてのゲームではない。

「子どもがゲームに向き合う」という関係としてのゲームとして見直してみる。

ゲームそのものには問題はない。あなたは悪人ではない。

子どもと親の間にゲームがやってきた。二人の関係性に隙間風が通りにける。

『ゲームなんてやってこなければいいのに!』

子どもと親との間の隙間にゲームが入り込んできた。子どもとゲームが愛し合い、親がのけ者になる。

『ゲームがやってこなければいいのに!』

これがエモーショナルな考え方。

ラディカルと呪文を一言呟いてみると見えてくる。

ひとまず関係性について考えることにする。そして、隙間風について考えることにする。

ゲームは悪ではない。依存関係が悪なのである。

隙間風は悪ではない。隙間風が強すぎるまたは冷たすぎることが悪なのである。

対象の問題ではなく、または行為の問題でもなく、調整力の問題なのである。

もう一度唱えてみる。「ラディカル」。

「あーロミオ。なぜこんなにも調整力を失ったのか。それが問題だ」というわけだ。

調整できない自分自身。

調整することを嫌悪している、調整することアレルギーに罹っている。調整することに対する誤認識がある。

調整するということは、細く長く続けることを前提とする営みである。

調整は継続のために行われるという根本原理が理解されなければならない。

とても大事なことが学ばれていない、または体験されていないのかもしれない。

もう少し、考えてみる。

ロミオは誰にも調整されずに無調整で安穏と生きてきたのかもしれない。

はたまた、調整どころではなく強制、脅迫、撤去される恐れがある生活を送ってきたのかもしれない。

ロミオの親は物事を調整することに苦労してきた、もう一つの物語が隠れているのかもしれない。

ここまでがラディカルの限界だ。こういう時はメタファー先生を呼んでみる。

ゲームの問題を関係性の調整力と仮定した点について、別の言葉で【交渉力】と設定してみる。

メタファー先生は言う。

「交渉が成立するのは合意が図られるときのみだ」重たい言葉がこだまする。

交渉下手な親。交渉下手な子ども。交渉が下手な支援者。

親と子どもの交渉が決裂している。子どもと支援者の交渉が決裂している。

もちろん、子どもとゲームの交渉もうまくできない。

とどのつまり、物語をある程度最初から書き換えなければならない。

「あーゲーム。一体あなたはどなたですか?」

「あなたは何のためにここにいらしたの?」

「あなたは私の敵?味方?それとも」……

これが臨床である。アセスメントである。辛かった親子と支援者の物語である。

ここで着目するべきは、ロミオとジュリエットは鏡像関係であり、欲望の投影でしかないということだ。

目の前にあるのは虚像としての自分自身である。

子どもはゲームに自分を投影する。それはゲームではなく自分自身である。

親もゲームに自分を投影する。それはゲームではなく自分自身である。

事態はもっと複雑だ。

親は子どもに自分を投影する。どうして思い通りにならない。

子どもも親に自分を投影する。どうして思い通りにならない。

入り組んだゆがんだプリズムのような人間の心を整理して鏡面を安定させる。

見えてくるものがあるかもしれない。それは今までよりもよく見える自分の姿。

そこに他人としての親が寄り添ってほしい。

鏡を通して自分を見つめる子どもの後ろから、「そう、それがあなたですよ」と優しく認めていくのだ。

ここに心の所在がある。

理解と共有の先に人間関係の細く入り組んだ新しい小道が見つかる。

そういう仕掛けなのだと思う。

思い通りにならない心の鏡が上手に反射するようになる頃に、プリズムが正しく小道を照らす。

そういう妄想をしながら、さいわいプラザを後にする。

さいわいプラザ、今まで気にしてこなかったがとてもいい名前だな。