令和4年1月の例会は感染症の急拡大と大雪の関係で残念ながら中止となった。初任者研修指導員としてご活躍されている前神田小学校長の長尾先生の講話の機会が次月に延期されたので、個人的に普段の臨床の場面における子どもたちの数の理解における躓きを考えてみることにした。
「数」について考える際に、まとまりをつくるということが機能として挙げられる。「ひとつの」といっても、その「ひとつ」を定義する事は実は難しいのである。ブドウを一つくださいと言われれば通常は一粒ではなく一房を指す訳だが、どちらも紛れもなく「ひとつの」ものである。「ひとつの」ということは潜在的前提として「これをひとまとまりとみなします」という他者との共有が図られなければ成立しないのだ。何をひとつとするのかについてはあらかじめ決まったものではなく、その場その場で臨機応変に変わっていくのである。「ひとつの」がたくさん集まることによって「いくつかの」「たくさんの」が成り立ち、「いくつかの」「たくさんの」の総和が「全体として」「全ての中で」という概念が発生する。つまり数は概念であり物自体ではないということである。
日常生活においても雑然とした倉庫で作業している時に「そこにあるもの全部持ってきて」と言われてもどこまでを指しているのかよく分からず困るわけであり、または段ボールの中に鉛筆が入っているとして「ひとつ持ってきて」と言われても戸惑うわけだ。
たとえば「ひとつの」性の躓きがある場合、足し算が出来ないという事態になるのではないだろうか。「ひとつの」性は、概念操作の出来ない小学校1年生は具体的におはじきや自分の指を用いて「ひとつの」が幾つあるかを具体的に検討していくしかない。おはじきや指を用いることができないほどに数が大きくなると足し算が出来なくなるのは「ひとつの」というものが概念として捉えきれず、両手を超えると「たくさんある」「いっぱいある」としか答えられなくなる。
足し算の目的は「ひとつの」から「全体は」「全ては」という概念を発見していくことだ。つまり【ひとつと全体しての一つ】という二つの「ひとつの」性を把握することではないだろうか。引き算の場合には「全体は」「全ては」から「ひとつの」ものを取り去るという過程である。ひとつひとつ取り去っていく中で、残り物を新たなひとつのまとまりとして明らかにする。ここでは【全体としての一つと引かれるひとつひとつ、残ったまとまりとしての一つ】という3つの「ひとつの性」を把握する必要がある。概念として高次になるわけである。
掛け算はもっと複雑である。たとえば2×4をするのであれば【ひとつ(1)、ひとつひとつを二つまとめた一つ(2)、まとめられた一つが幾つ合わさるのかという二次的総計としての一つ(4)、全体としての一つ(8)】という4つの「ひとつ性」を把握しなければならない。掛け算の根幹は×1である。一つのまとまりをつくるという作業である。×2~×9を一挙に覚えるのではなく、×1の性質を理解してからの×2の定着なのだと思う。一つのまとまりが二つあるという×2の性質が理解できないうちに、×3以降が急に乱立するために原理ではなく伝家の宝刀九九として無意味にメロディーで暗記するしかないのではないか。本人にさえ意味の分かっていない暗記の果てに必要とされる計算力とは何だろうかと思うわけである。
8×2は8×1=8であることが理解できれば、基準となる1が倍もあるので8が二つ。この原理では掛け算の分数で躓かない気がする。8×1/2は基準1が等分されてしまっているので8を等分することで理解できる。掛け算は「基準となる1が幾つあるか」ということである。これが出来てから割り切れない数や余りのある計算の要領が掴める気がする。一方、割り算は「基準となる1が幾つ含まれるか」ということである。この原理で割り算をすると8÷2というものは、8÷1=8なのであり、基準1が二つも含まれているので半分にする(基準1に戻す)ということである。8÷4は、基準1が4つも含まれているので 4つに分割する(基準1に戻す)ということである。8÷1/2では、基準1が半分しか含まれていないので2倍にする(基準1に戻す)。「ひっくり返して×」という謎の原理ではなく、基準1に対する割合の話なのだと思う。残念なことに話がかえってややこしくなった気がするが。
整理したい内容とは大きく話がずれてしまったが、自分とは異なる外界が要請する「これをひとまとまりにします」という前提への感受性が成り立たないと上手く数えられないという事態に陥る。この問題を潜在的に引きずるとやがて単位の問題で困難を抱えるように思われる。1センチを「ひとつの」で学びセンチメートルの世界に馴染んだところで、「100センチをひとまとまりとする」という1メートルが登場して潜在的前提を大きく崩される。「ひとまとまり」とは何か、基準は自ら決めなければならず基準が変われば結果も変わる。自分の目線に立ったり、強いられて他人の目線に立ったり、基準によって生じる答えは変わってしまう。それそのものは何一つ変わらないのだが、それそのものをどのような基準で切り取るのか、それによって見えてくるものが変わる。
哲学者のカントは純粋理性批判の中で「単一性(ひとつの)」「数多性(いくつかの、たくさんの)」「全体性(一括して、すべての)」という言葉で説明している。カントが数の問題に着想したのは人間の認知は全て主観で成り立っているのかという哲学的問いを思案するためのものである。人間は物自体を認識することは出来ないが、共有できる客観的なものがあるのはなぜかという問いである。感性と悟性によって物事を把握しており、誰もがどこで生まれたとしても「1を1として捉えること」の出来る背景に経験的ではなく先天的な(アプリオリ)認識装置があると論じていくのである。詳細は割愛する。
マイナスという概念も基準を5とするのか、基準を100とするのかで大きく異なってくる。前者の国では日本の-10は-5となり、後者の国では+90ということになる。本質的にはどこでもいいのであるが、他者と分かり合うことの出来る何らかの基準(国際標準)を先人が考案してくれただけのことである。正規分布の標準偏差をどのように構想するかという問題でしかない。その証拠に日本人にはインチやポンドという基準を用いていないために、総量を把握しがたいということが起きる。因みに1インチは2.54㎝であり、1ポンドは453.59gである。従って基準というものは経験論的なものであることが分かる。
一方で、「これはひとまとまりである」を把握するという現象は経験的なものではない。アプリオリな認識であり主観と表現しがたい範囲となるのである。自分の物を見るフィルターを通さなければならないながらも「これが一つである」と誰とでも必ず共有できる。主観の中には共有できるものと共有できないものがあるというわけだ。数は共有できる主観的現実であり、まるで事実であるかのように客観とひとまず置いておくことが出来る。これが科学の基礎でもある。1を「ひとまとまりのもの」として誰もが必ず認識できるところに、共有できる主観としての客観性(それそのものとは異なるが)がある。その後に何を1とするのかという操作として、基準が必要になり、インチなのかセンチなのか、メートルなのかという恣意的な話が二次的に来る。
最後にくどいようだが、1つのまとまりを把握する重要性について考察する。足し算が出来るようになると次に出てくるのが植木算であり、「木を等間隔で植えた時の木の本数を答えなさい」のような問いである。数の概念が分からない生徒は、「木の本数=間の数+1」という訳の分からぬ公式で対応するのである。両端に木がある場合ではその計算で構わないのだが、両端に木を植えない場合とで答えが変わる。大事なことは公式で解くことではなく、何を問われているのか把握することであり、「二つの木の間には間は一つ」「三つの木の間は二つ」という【まとまりをつくる原理】を把握することと思う。経験論的な数の操作の話ではなく(未経験で要領のつかめない生徒は暗記に頼らざる負えなくなる)、アプリオリな「ひとつ性」について把握することが、たとえばLDの計算障害などに役立つような気がする。素人の立場で恥ずかしながら数の難しさについて幾つか妄想してみたところで、次回(2/9予定)のこどもmirai研究会での長尾先生の講義を心待ちにしたいと思う。-