0歳の子どもを入浴させていると面白いことをする。掌で水面を叩き、浴槽の壁も右手、左手と交互に叩く。実に楽しそうに壁を叩く。触れることの喜びが満ちて、顔じゅう水しぶきのまま声をあげて笑う。発達心理学者のJ.ピアジェ流に解釈をすると感覚運動期というものであり、五感を通して世界を知ることに夢中となっているというわけだ。舐める、触れる、嗅ぐ、聞く、もちろん見る。水面を叩く彼を見ていると、身体中が接触の刺激で満ち溢れ興奮せずにはいられないように見える。実感という自らに手ごたえのある感覚を求めているのだと思う。
触れることについて考えてみたいのだが、布団に横にしているだけでは駄目なのだ。すぐに起きて泣いてしまう。抱きしめる、くるむ、つつむと上手くいく。皮膚の接触だけでは不足な時には、身体に、または身体内部に直接働きかけるような手ごたえがないと不十分なようである。そのように考えてみると不思議と自分自身も同じような性向を持っていることに気づく。
その時連想したものは、広い縦横100メートル程の体育館のようなところに放り出されたらどのような心持となるかだ。おそらくその広さに反してどこかの壁、おそらく私なら四隅のどこかで困り果てるのではないかと。接触という現象になにか根源的な安心感を抱くのではないか、狭さに安心を、広さに不安を感じるということはないだろうかと考える(どれも程度というものがあるだろうが)。
それに私はトイレが好きだ。トイレが部屋ほど大きければそれほど好きになれるかはわからない。空間的接触感が自己範囲内を超えるとどうも居心地が悪い。学校に一人取り残されたとしたら、それは朝夜問わずにどうも心細いのではないだろうか。子どもが水面を叩き浴槽の壁を叩く時に、それは自分の身体を確認することのできる確かな手ごたえにうっとりするのではないだろうか。自己感覚は外部から与えられ、外部との接触の中に自分を発見していくプロセスなのではないかと妄想している。単に動ける喜びとまとめてしまうには勿体ない、彼は自分を発見していることに夢中なのではないかと思うと、いつまでもそうさせてやりたいと思ってしまう。
仕事で時折興奮している子どもを目にする。興奮している子をホールディングしてやると落ち着く、ある程度の暗室を用意してやると落ち着く、狭い部屋でタイムアウトするとうまくいく。その子の扱える範囲の玩具や話題に差し替えると落ち着く。神経心理学の分野においては、意識水準を興奮や錯乱から混酔へと覚醒度をスペクトラムで把握する。清明状態、傾眠、混迷、昏睡という具合だ。丁度良く興奮を鎮め着地させてやる、そこに安心という心理的現象が宿るのではないだろうか。閉鎖病棟は狭い、それは私が勤めていた病院に限らず大体が6畳もない。狭さに何らかの落ち着かせる作用がある、放逸するほどの広さに人間は耐えられないのではないだろうか。徐々に開放病棟になると広さを手に入れる、または広さに耐えることが出来るようになる。いつかはデイケアへ、そして家庭へ、社会へ。
漠然と死ぬときは家がいい、親密な他者が幾人かいるといいなと考える。実際に自分がリアルに死に直面することは実感がないが、妄想の中では家に居たいと思うのだろうと今は考えている。一人でふらっと一人旅などする気にもならず、知らない人や新しい思想、行ったこともない場所まで広さを求められる自信はない。手に入れた範囲のものを懐かしむことで精一杯であり、狭さに包まれ安心したい気持ちになるのではないかと思う。
もう少し話をそらせたいと思うが、馴染のものに安心を抱き、新規のものに興奮を覚える。自閉傾向においてはアルゴリズムに安心が宿り、常同行動には常同的である意味がある。不安障害の思考反芻も反芻することで安心を求めている。儀式的行為もそれである。慢性精神疾患にはルーティーンが欠かせず、変わり映えしない日常のルーティーンが安心を連れてくる。パラノイアの妄想が固着化していくのは、固着化することに価値があるから。そのように考えてみると、人間はある程度のフレームの中で生きていくことに安心を抱き、同時にそれに苦しむような気がしてならない。フレームに苦しさを感じて自由に飛び出し、またフレームに戻ってく了な柔軟さが健康状態であるとするならば、フレームを極めて小さくし過ぎてしまう不健康さや、フレームから飛び出して戻ってくることが出来ない不健康さが際立つ。どれもちょうどいい手ごたえのある実感を欲しているように感じてしまうのは私だけだろうか。そのようなちょうどよく自分と外界が接触することに心地よさを感じて、その実感に納得をするとするならばそれは健康的な気がしてならない。
身体感覚から派生する空間的安心感というものは重要な観点な気がしてくる。空間的安心感が何かによって脅かされるような気がしてより籠る、そこに留まっていられずにいつしか飛び出ていく。精神科的には自我境界という類のものであると思う。身体感覚は空間だけではなく時間にも宿る。先の例で言うと、たとえば慢性精神疾患の場合は小さなフレームの中でルーティーンに身を委ねることで変異しない時間の中に安定を確認していくような印象がある。確か、心理学者の東畑海人先生は沈殿する時間と表現していた気がする。時間の経過がデジャブのように繰り返される、輪廻する時間にこそ安心が宿る。どんどんと新しい時間が自分の身体に流入していき侵食されていくことに耐えがたいのではないだろうか。
方や健康な身体感覚を伴う時間の経過はデジャブには耐えられず、ある程度新規な時間の浸食により興奮することを好む、または耐えることが出来る。輪廻する時間には飽きてしまうので、幾つかの心動かされる出来事を体験して、時間の経過が身体に蓄積され心地よい疲労になったころに退社して帰宅することを望む。気晴らしは健康だから出来るのである。輪廻する時間に退屈を感じ、少し自分で自分に刺激を加えてやるのだ。フレームから少し外れた体験をすることで、気持ちが晴れた気がする。旅行を好み、新しいことを学び、知らない人に出会うことを欲することは健康な証である。それでも気晴らしは気晴らしであり、戻っていくのである、ホームというフレームに。時計も実によく出来ている。24時間を限度にルーティーンするのである。ナンゼンナニヒャクジュウナンオク年…キュウセンハッピャクナナジュウヨン日ゴヒャクキュウジュウニジュウニ時間ナナジュウハッ分…という訳の分からぬ直線ベクトルの時計になってしまうと人間には耐えられない。せいぜい365日が精一杯のベクトル時間で一年という単位にホッとするのである。大みそかは大好きだ。やはり24時間計が正解でいいような気がする。12時間デジタルでも構わないが、広さや長さには限度が欲しい。これも安心である。
驚くほど逸脱してしまったが、身体感覚から心理的現象を感じる、掌にある程度の手ごたえを感じて有限な世界に安心を得て笑う。子どもが身体の有限性から自己感覚を掴み、外界から自分を発見している。「すごいじゃないか」。本当にそのように思う。