最近Zoom会議や講義に参加することが多い。手軽でとても重宝しているのだが、どうもスムーズな双方向性のやり取りに苦労する、違和感が残る。気にならない程であると言えばそうなのだが、ZoomやSkypeを取り入れた面談をしてくださいと言われたら導入に二の足を踏んでしまう。一方通行の情報の伝達であれば問題ないのですが、どうも双方向性には不十分な何かがあるように感じられる。情報共有のための会話には十分でも、語りという水準での会話にはどうも不足を感じるのだ。

精神科医の神田橋先生か中井先生か失念してしまったが「映像には統合失調症感(プレコックスゲフュール)が映らない」と表現されたいたことをぼんやりと思い出す。プレコックスゲフュールとは統合失調症的な雰囲気や空気感というものである。映像を通る情報と映像を通らない情報があるというのだろう。私は映像を通らない情報とは何かと考えるのだが、それは「心地」のようなものだろうと思う。映像を通る情報は「面白い‐つまらない」「役に立つ‐役に立たない」という客観的評価に軸足を置きながら、「星三つです」などと言ってコメンテーターしていればいいのである。当事者としてではなく情報収集者としてそこに登場することが可能である。極端に言えば、困ったらすぐさまその場を離れ、または聞くことを諦め、他人事にできる程度の関与で成り立つ。体裁さえ整えてしまえば、聞いているように済ませることが出来る。

一方で映像を通さない情報とはなにか。直接面会はその場にいることを要請され、登場人物として体験させられるのである。『させられる』という表現は誤解を生むかもしれないが、そのような性質を含んでいると思う。“わざわざ”感があり、直接会いに来たという行為を含む“わざわざ”感が否応なく主体的関与度を促す。たとえば「同じ釜の飯を食うほどの仲」というように、行為の共有は当事者としての主体的関与度を高めるのである。直接面会の場面で体験させられている当事者は、困っても他人事にできない程に関与を要請される。映像では逃げたいときに逃げることが出来るし、集中を切って他のことを考えていることもできる。一方で直接面会では逃げたいときに逃げることが出来ない「心地」が当事者である自分に押し迫ってくるのである。ここで重要なのは相手が自分に迫るのではなく「心地」が自分に問いかけるのだと思う。

“わざわざ”感を通して主体的に関与を強制され、簡単には逃げられないからこそ、その場に流れる「間の空間」に関心は惹きつけられ、「間の空間」に問いかけられるのだと思う。「主体であるお前は何を感じ、何を想う」「主体であるお前はこの後どうするのだ」と。相手に問いかけられているのではなく、「間の空間」に問いかけられる。「間の空間」とは正に、「私とあなた」で生じる雰囲気や空気感であり、私がしっかりと関与してしまっているために「間の空間」から問われていることを簡単には無視できない。「何だろうこの心地は」と。この逃げられなさは関係から生じるものであり、関係しているということは互いに現在の関係性を自認しながら過ごすことになる。ちなみに「間の空間」とは精神分析学者のT.H.オグデンの言葉である。

もう一度整理をすると、映像を通す情報とは相手が私に語り掛けるだけであり流れ出てくる言葉(音)を正確に理解すれば済む。他方映像を通さない情報とは二人の「間の空間」が自分に語り掛けてくるものであり、言葉を理解するのではなく「間の空間」の性質を把握しなければならない。言葉の水準では生じえない違和感が、関係性の水準で違和感として表出してくるということだろう。言葉の理解や表出という水準ではなく、言葉の用い方という「どこで、なにを、だれに、どのように」という伝達行為の問題なのではないだろうか。伝達行為とは、自分とは異なる他者について自分にとってどのように配置するという象徴的空間関係の問題であると思う。

映像では、自分とは異なる他者を自分にとってどのような「間の空間」に配置するのかという問題には対応することがしにくいのではないだろうか。ライヴ感やグルーヴ感は会場で生じるわけであり、レンタルDVDではどこか醒めてしまう。映像では「私とあなた」の「間の空間」は映らない。自分とは異なる他者を自分にとってどのように「間の空間」に配置するのかという距離感が表現されにくいのだろう。

プレコックス感についていえば、“わざわざ”面会をする場面において、支援者として会う必要は感じるのだが、相手からは会うことを求められているようには感じられないという空虚な矛盾にあるように感じられる。「会う必要がある‐会いましょう」「会う必要がない‐会うのを辞めましょう」という単純な合意が図られにくく、合意を共有しきれない中で会わなければならないようなどこか「心地の悪さ」を感じるのだと思う。相手から会うことを要請されていないにもかかわらず、「間の空間」からは会うことを要請されるという違和感であろうか。相手の向く眼差しの先に“私”が想定されていないようでありながら会うことの難しさに向き合わなければならないと表現したらよいだろうか。嫌われているでも、拒否拒絶されているでもなく、それでいながら合意を取り付けずにいるじれったさ。放置とでも表現しようか。勿論何かしらか現状について相談をしてくれるわけですが、“私に”訴求しているのではなく、“私を透過する何か”と話しているような感じがするのである。私に届かない、私が伝わらないという感覚であり、会っているにもかかわらず会えなさを感じるのである。「間の空間」において、二人があっているという実感が生じにくいのかもしれない。

空間の共有性という意味においては、二人の人間が自分を感じながら、外界への注意も怠らないからこそ丁度いい塩梅であり、「自分がここに居させてもらいます」「あなたが居ることを理解しています」という感じである。互いに居ることを補償しあうことが「間の空間」を安定化させるのと思う。つまり「間の空間」が想定されており、「間の空間に私は入ります、あなたもいて良いですよ」という象徴的居場所を構築できるかどうかが「心地」の正体であると考える。Zoomでは象徴的居場所が生まれにくく、あくまで私とあなたの隔絶している空間性が強調される。最初から象徴的居場所が物理的に生じにくいために、「間の空間」の必要を強く喚起しないのではないだろうか。それは面会ではなく質疑応答になり、会話ではなく講義になり、語りではなく情報伝達になる。私のよって立つ心理療法としてのスタンスにおいてはリモート面談について時折要請を受けることがあるが、今は諦めておく立場なのだ。それほど器用に人と会うことが出来ないことを改めて知る.