仕事は嫌いではないし充実していると思う。それでも日々疲れを感じる。重たい身体を引きずりながら学校へ、ユニコーンへ、会議へと向かう。車を停め、扉を開けると馴染の顔がそこにはある。「あ、お疲れ様です」と様々な人が笑みを浮かべて挨拶をしてくれる。仕事の進捗状況を聞き雑談をする。癒される。喫煙者を誘い煙草を吸いに行く。癒される。臨床の話に花が咲く。癒される。

私は日々の生活の中でとても多くの人に癒されている。いつの間にか疲れていたことを忘れ平常運転になる。癒しとはケアである。学校の先生、幼保園の先生、発達の支援をしている各職種の先生にケアを受ける。時には患者からもケアを受ける。そして家庭にもケアがある。私は日々、実に多くのケアに包まれながら生きている。

それでも私はセラピーなるものを自ら実行しようとし、セラピーなるものをコンサルテーションや講義を通して人に伝える。心理療法というものは、ケアの観点から語られることが多い。そのようなものを含んでいることは理解しているのだが、あくまでセラピーとして成立させようとしている。私はどこかケアとセラピーを分けて考えたい節があり、それはそれぞれ相対化して考えることで互いの本質がもう少し捉えやすくなると思うからだ。勿論、優劣を語るつもりもない。臨床上、それらが混じり合い、分け隔てできないものになることは理解しているつもりだが、それでも捉え違いしないで保っておきたい関係なのである。では、私のこだわっているセラピーというものは一体何なのだろうか。

セラピーというものは療法という和訳がある。つまり「法」なのである。たとえば心理の業界には遊戯療法というものや家族療法というもの、精神分析的心理療法、認知行動療法、行動療法、イメージ療法がある。それだけではない。それらを包含する心理療法という括りの外側には理学療法、作業療法、言語療法などもっとたくさんの「法」がある。ここでいう「法」というものはいわば人を切り取る学問としてのよって立つ立場に内包される決まりごとのようなものと思う。ルールというものは各分野の先人たちの知識の蓄積によって固められてきた“こういうもの”“そういうもの”の集まりである。そういう集約されてきた知見がばらばらに離散しているのではなく統合して、固められることで人間を説明することの出来る一定のカタマリが生成される。いつしか学問として成立していくのである。

ケアには学問はない。会い方や会う姿勢が問われ、それによっていかに上手に会うことが出来るかが問われる。ケアは広く深く固めることが出来ない程に遠く果てしがない。ケアを学問化してしまうとケアの本質が見えなくなってしまうことすらあると思う。じんわりと漂い、温かく、心地の良いなめらかな関係があればそれがケアである。心理療法はケアなのか、学問なのか。

くどいようだが、セラピーは学問である。療法とは“私は人間をこのように捉える”という「法」に則って行われる意味産出装置である。「どうしてあなたはそのように考えるのか」「なぜあなたはその言葉を今私に語り掛けるのか」と、あなたが私に語り掛けることへの意味を捉えたいのである。そこに責任を負う職業なのだと考えている。こどもmiraiの中では、様々な「法」をバックグラウンドする“子どもを理解するための意味”のカタマリが至る所に転がっている。色々な破片を手に取り眺めることで、自分の手にしているカタマリがどのような性質のものか少しはわかるようになる。学問は絶対化してはならないように感じる。相対化してこそ、その価値がようやく見えてくる。自分ではないものに触れる、自分とは異なるものに出会うことである。

こころという実態のないものに触れるからこそ、またよく分からぬこころというものに困っている人がいるからこそ、分かる(分かり合う)ための努力が必要なのである。そこに心理療法の学問性が浮かび上がる。セラピーを目指すことで、結果としてケアが生まれることがある。そこにこだわらないのだとしたら、ケアを目指してケアを成すことになる。それはヒーリングやリラクゼーションと何が異なるのだろうか。

【理論は過激に、臨床は素朴に】。社会に出て数年経った頃、自分の臨床についてぼんやりと抱いていた感覚は今でも根強く残っているような気がする。