小さな汚い文字でびっしり書かれている紙切れが食卓の上に置かれていた。妻は「これゴミでしょ、はやく捨てて」と言った。僕はソファーから立ち上がりそれを手帳にしまう。危うくこんな大事なものが捨てられるところだった。

妻あての年賀はがきなどファイルの中に無造作にしまわれ、本棚を整理していた僕が「これいるの?捨てようか?」と言う。妻は置いておいてと。僕はどこかでもう見返すことはないその手紙はいるのか、いつまで取っておくのかと思った。

僕がゴミと思ったそれらは、別の人から見ると取っておくに値するもので、一度もそれを見返していないから必要がないものであるという自分の発想は誤りなのだと気づく。見なくても手元のどこかに置いておきたいもの、手元ではなくても自分の領域内のどこかにあることを承知していたいものなのだろう。必要があるということは使用を前提としているわけではなく、「ないと嫌」ということなのだと思う。僕は使用しないものは必要がないと考えたのだが、人間の心は機能上の使用を目的としているわけではなく、もう少し複雑なようだ。

夏になると鬱蒼と覆い隠される庭の雑草を摘む。毎年の恒例だ。日焼けができて汗が滴る中、頭の中の昭和天皇は言う。「雑草という草はありませんよ」。雑草と呼び捨てて摘む作業は心が痛まないが、ヒメムカシヨモギ、ハコグサ、ミント、スギナと思うとそれぞれ固有の生命があることにハタと気づき申し訳ない思いがしてくる。雑草をゴミとして処分しようとしていたのだが、彼らは生きているだけなのに…どうも勝手が悪くなる。雑草という言葉でひとくくりにいらないものとしてキレイにしたいのだが、固有名詞のインパクトは強い。

世の中にゴミというものはない。ゴミだと認識されたときにそれがゴミというカテゴリーに入るだけである。ある人にとってはゴミであり、ある人にとっては素敵なものであり、ある人にとってはかけがえのないものである。ゴミというものは精神世界の象徴的名称である。自分から切り離すと都合がいいのである。

僕の嫌いな言葉で「つかえないな」というものがある。実際に生きてきた中で何度か言われたこともある。もちろん傷つくのだが、その時は「僕が使えないのではなく、あなたが僕を使いこなせないのだ」と自分を慰めたことを覚えている。つかえないという分類で白黒と裁定されていることにだんだんと腹が立って、「僕はこんなことができる、僕はこれができないだけなのだ」と心の中で言い訳をする。それでも、あくまで“その人にとって”というものであり、そこが肝要なのだと思う。「誤解である」と涙を流して弁明したくもなるが、あくまで“その人にとって”であるので、愚痴でも吐いて甘んじて受け流す程度にしたのだと思う。もちろん重要なアドバイスとして多少は受け止めるようにもしているが、自分の価値を他人の価値で決めることは少し危さをもつ。それでも高校生くらいの苦い記憶がよみがえり…となるものの、今日はお朗が良く外は晴れていて温度も適温。そんなこともありましたね、と一服して事を済ませる。

私の会社の職員もそうである。何でもできる人もいるが(そのように見えるだけかな)、ある能力に特化した人も多い。ようするに、スペックの開放である。そういうマネージメントである、それだけの話。だからこそ、その人のスペックを理解しないと会社はうまく回らない。

ゴミなんてないさ、雑草なんてうそさ。寝ぼけた人が見間違えたのさ。その先の歌詞は忘れた。