先日ある大学の研究に協力することがあった。対面面接とZoom面接の差異を測定するものだ。詳細は割愛するが、色々と考えさせられる部分があった。前回の続きのような文章となるが、やはりZoomを通して“会う”ことは難しいという感想である。端的に言うと映像を通して人に会うと攻撃性が助長される印象がある。どうもぎこちなく、映像の向こう側から悩み事や質問をされるのであるが、こちら側としては説明が多くなり指導的になってしまうという顛末である。間がなくなるとうのか、どうも矢継ぎ早になってしまう。“意味のある間”がなくなってしまうという印象である。

では“意味のある間”とは何だろうか。私の感覚からすると咀嚼中というものや、咀嚼できずにいつまでも口の中で噛んでいるというものなど、何かの最中であるということが重要であると考える。“間というものは行為なのである”というのが私の答えである。つまりは解決に向かう最中や解決できずにいる最中であり、そのようなことに思案しながら味わっている行為である。これを別の言葉で“解消”と表現してみてはいかがだろうか。

対面面接では解消への行為と解決への行為があり、Zoom面接において解消への行為はなく解決への行為が優先されるというように。後者においては何らかの原因で解決に向けた過剰なエスカレーションが生じやすいために、説明や指導が多くなる面接、ある種の攻撃性の助長された面談になりやすいのではないだろうか。何らかの原因というものが重要である。

話を飛躍させるが、人というものは元来から人に関わりたいのだと思う。関わりたい欲求が強いからこそ非対面であったとしても文面だけであったとしても音声だけでも人に繋がりたがる。元来より欲求として潜在している関わりたい力が対面ではある程度上手に統制されるのではないかということである。一方Zoomなどの映像では上手く統制しきれないのではないだろうか。今時のSNSを見ても、気に入らない情報があるのであれば見ないようにするなど放っておけばいいものの一々goodボタンやbadボタンを押し反応をし、アンチのコメントを書かずにはいられないように。そこまでしなくてもテレビを観ながらぶつくさ言う、車の運転をしながら何かしら文句を言うなど。関わらないでいれないのではないだろうか。たえず“自分とは違う”“それはいけない”“被害をこうむった”と表明せずにはいられない。

人は人にどうしても関心を向けてしまう、関わらずにはいられないという性なのだろう。そのような人への欲求というものが対面ではほとんどの場合は統制されうるのだろうが、非対面では統制を受けずに暴発してしまう。どのようにして目の前の人と会うのかではなく、“どうにかして会いたい”が優先されるような印象だ。どうにかして会いたい中で、相手のためにと思って不必要に説明や指導をしてしまう、“意味のある間”を味わう余裕もなく潜在的に会うことだけが優先されてしまう。相談者は間を忘れ、会うためだけに何か解決しなければと質問と浅い納得を重ねる。治療者も間を忘れ、説明と指導で何か解決しなければと奔走する。心理療法としてうまくいくわけもなく、可能な範囲は心理教育的な物事というものになりやすい印象である。

では間をつくればいいじゃないかというものの、間はあれば何でもいいというものでもない。“意味のある間”というものは作るものではなく生じるものであると思うからだ。イメージで言うと音符だらけの楽曲というようなもので、音を成り立たせるための空白がない。音楽に全く精通していない私だが、音は空白の上に成り立ち、空白が次の新たな音を結ぶというイメージだけは持っている。音は空白に依存する。空白のない音楽は(そんなものは本質的にはあり得ないが)もはや暴力である。奏、メロディーはそう簡単には作れない。音と空白を適当に作るだけではなく、連ねられた何らかのメロディーが人にメッセージを伝播するようなものになるためには、“意味ある間”が生じなければならない。会話も同じだ。

空白としての間に依存できないことで、不必要に質問を重ねてしまう、主張を重ねてしまうのではないだろうか。まさに余裕のなさである。“意味ある間”とは語り手も聞き手も間に依存できるということであり、間の空間を信頼出来るからこそ身を委ねて安心して語ることが出来る。身を委ね依存の出来ないところに生じる会話は不必要な緊張や解決への奔走から解消という機能を失う。

解消とはつまり“意味ある間”に依存するという行為であり、解決ばかりではなく解決できないことすら二人の間にある間の空間において抱えることの出来る上等なものなのだと思う。映像を通した非対面性というものは解決できるものしか扱うことは出来ないのかもしれない。「そうだ解決しよう」と思ってつい言ってしまう、書いてしまうのではないだろうか。解決とはつまり説明や指導であり、または指示や説得であり、手ほどきをして促し理解を求める。時には論破へと繋がる。SNSで繰り広げられる不必要に攻撃色の強いコメントは言った側は解決すればすっきりしているのだろう。「そうだ解決しよう」という発想が危うい。生きていれば解決できない物事の方がよっぽど多いのである。解決できないことの中でどのよう生きていくのか。つまりは“抱える”という行為や“解消”するという行為、または“脇に静かに置いておく”ということなのではないだろうか。そのような物事の性質の時に哲学や心理療法は役に立つことがある。他人のことや過去のこと、生き方のことや傷ついて忘れられないことなど私には解決できないことで溢れている。だから人に会い、本を読み、思索をする。出来るのであれば時間をかける。その多くは解決ではなく解消である。若い時には自分で解決すると意気込んでいたが、今では解消しながら生きていく、抱えながら生きていく方に親しみを感じている。