親戚の子どもがある人気ゲームの実況を紹介してくれた。檻のようなものを作りそこに牛を二匹入れると交尾をはじめ子どもを産む、生まれた子どもはどんどん大きくなりまた交尾と出産を繰り返す。画面はハートマークで溢れかえる。檻の上には焼却炉があり、小さな折でいっぱいとなり大きな牛から上へと移動して焼かれていく。そして骨付き肉が出来上がる。これが延々と繰り返される。

私が思い出すのは虫かごだ。夏になると子どもは虫取りをする。アブラゼミやトンボ、蝶、ダンゴムシやアリ、カマキリやバッタなどがおしくらまんじゅうをして小さなかごの中に押し込められる。数日間は新鮮な葉や水分が与えられることもあるが、羽が千切れ乾燥して籠の下で横たわっている姿もよく見る。共食いも。私も子どものころ同じようなことをしていたので偉そうにモノ言う立場ではないのだが。

人間には元々狩猟本能なるものがあり、集めて溜めておく能力があるのではないだろうか。遊牧民族であった時には「集めて溜めて」をしているわけにはいかず、その日暮らしを充実させることに神経は向かう。文字通り狩るだけである。遊牧している最中新しく出会う周囲の様子、特に危険について神経系は躁状態manicに亢進していただろう。定住民族になって周囲の危険の少ないところに居場所を確保してから神経系は躁状態でいる必要がなくなる。一日中歩き回り狩りをするのではなく、落ち着いて座っていられる時間ができる。するべきことがない空白の時間という感覚が初めて生まれ、いつのまにか持て余した躁的な神経系と空白の時間はちょうど接点を持ち交わるようにして土器や石器、装飾品が生まれるようになる。興味のある方は國分功一郎氏の暇と退屈の倫理学を読むことをお勧めする。

動物には余暇や暇はない。時間の流れにしっかりと乗って流されていく。人間は時間の流れの長短を感じ、客観世界の物事を創造的世界の物事としてトレースする能力がある。これまで生存のために割いていた躁状態の脳は、生存にはかかわりがない美的感性や芸術性を目指す。余暇を楽しむ、生存には関係のない美しいものに心奪われるようになるのである。飲むこと食べることだけではなく、素晴らしいものをより多く欲するようになる。

動物としての力強さや体の大きさ、声の大きさ、なわばりの広さだけが頼りであった基準が、人間は美しさや器用さ、物知り、繊細、丁寧、親切というものまで基準が広がっていく。生きるという素朴なことが、どこで何をしてどのように生きるかという煩雑なものに変わる。動物にはアイデンティティはない、人間にはそれが必要である。選べるのである。だから困るのである。選択判断する力が必要なのである。

話を三段跳びとするが、現代は美しいものや芸術性よりもアクセス可能な効率性の下で集めて溜めておく能力があるのではないだろうか。“それそのもの”の一点性ではなく“そのようなもの”“そのようにみえるもの”でいいのである。効率よく自分の範疇の中で保存を目指すと合理的性を必要とする。“そのようなもの”“代わりがきくもの”で構わないのである。大量生産、大量消費である。もちろん私もその恩恵の真っただ中を生きているのだが。データもペーパーレスのほうが効率よく、メールのほうが早く、電話のほうが手軽。無限焼肉は象徴であろう。効率よく多くのものを処理することに夢中になるのだろう。自分を含め、人間の人生が物集めゲーム(貯蓄ゲーム)になってはいないだろうか。幸せとは何か、人生とは何かを考えたときに、手には負えない大きすぎるものを目の前に興奮しすぎた躁状態の脳はとりあえず目前のものを従来通り集めておこうという発想でより多く、より早く、より効率的に保存への集中をする。

保存を目指すということは基本的には全く新しくなるのではなく、今すでにあるものの延長線上に、今以上の多くのものを有していることを目指すのだろう。Change ではなくあくまでDo More、加速していくしかないのである。効率よくたくさん手に入れることができることは素晴らしが、センスが重要である。影響力を過剰にしていくことができることと同時に、それを扱うことのできる人間になっていなければならないような気がしている。

無限焼肉はいささか驚いたが、実際生活においてスーパーで売られているきれいな精製肉はどこか人間のエゴイズムを孕むものであり、動物側から見るとそのゲームの世界観とそう変わらない現象が生じているのだろう。強く意識したくはないが自分の人間としての罪のようなものが胸の奥でうずかないわけではない。ビーガンでも宗教者でもないのであるが、文化人類学的な解釈としてはそのような捉えができなくもないだろう。話したいことは、人間のことではなく人間様のことである。

我が家にジジという猫がいる。6歳の中年の雄猫で風呂にもトイレにも布団にもついてくる甘えん坊である。ラグドールという大型の猫で、彼が抱っこをせがんで膝の上に来ると大きな毛布を掛けたような心地となり実に愛らしい。昨今、犬猫にICチップを装着することが閣議決定されたことがニュースになっている。まさに人間様の発想である。確かに何かの災害で彼がいなくなっては困るわけで、可哀そうだが付けたほうがいいだろうかと考えもする。ただ、その前に考えておいたほうがいいことがあるような気がしている。一つの生き物としての人間が人間様となり、ほかの生き物の生態管理を行うようになる中で、過剰な影響力を行使しているという傲慢な事実については意識して受け止めなければならない気がする。人間様の影響力は物集めゲーム(貯蓄ゲーム)の果てにほかの生き物の生死にまで関与するようになっていることは事実であり、人間様が下品で分別のないやり方でそのゲームに参加してはならないように感じる。ICチップを装着することが良いことか悪いことがわからないが、ひと先ずは人間が過剰な影響力を持っていることに謙虚であるべきであり、無限焼肉を見たらどこか違和感を抱く感性が必要なのであり、物集めゲームの虜になってしまった大人や子どもは自分の人生について視野をマクロに開放するよう働きかけられなければならない。そのゲームを楽しむ子どもに罪はない。感性を互いに伝え合わなければならない。大きな影響力を有しているだけではどうしようもない。とどのつまりは、その影響力をどのように行使するか、結局は人の品性や感性やセンスというものに頼らざるを得ないのである。

たとえば魚から臓物と血が出るのを知らないでは困り、肉は動物であることをしっかり把握し、野菜は葉っぱではなく生き物であると学ぶ。結局おいしくいただくのだが、品性や感性というものは一つ一つの体験をどのように捉えていくかという生活の繰り返しの中で育まれる。終着点は「大事にするって何だろう」そういう発想なのではないだろうか。