引きこもりの状態が慢性化する原因の一つに日本的な甘えの分化の要因があり、母子癒着が構築されやすいことで「去勢否認」が生じてしまう傾向があると考えています。S.フロイトのエディプスコンプレックスの理論を援用します。社会化socializeの目指すべきことは個人がいかにして社会にコミットするかということであり、社会化という問題は個人が去勢されることを意味しています。精神分析における去勢という問題はペニスで語られます。男性は父親のような大きなペニスを権威の象徴として、愛する母親を父親から奪い取る妄想をするときに父親から自身のペニスを切り取られてしまうのではないかと思うと言われています。万能感が父親の権威によって崩されるというわけです。

一方女児の場合には父親に親しむ中で自分にはない権威というものを関係性の中で獲得していこうと模索すると言われています(余談となりますが男性が権力追従的で、女性の方が人間関係操作における複雑さがあるという根拠です)。女性は生まれながらにして去勢が完了しているため、引きこもりの大多数が男性であるという文化的調査は定式的なものです。

去勢とは簡単に言うと「諦めを知る」ということ、「身の丈を知る」というものであり、幼児的な万能感は去勢を経ることで社会的に受け入れられる形へと変わっていくことが望まれます。これが人格の成熟というものです。

人間は去勢されることで初めて家庭外において他者と関わることが出来るようになるわけであり、去勢されなければ社会に参加することは叶いません。去勢という現象は自然発生的に年齢と共に獲得されるものではなく、さまざまな出来事を通して外部から与えられるということが重要な観点となります。外部の誰が去勢を与えるか、それは親がその役割を担うことが多いと思います。子どもにとっては万能的世界観にいる方が傷つくことがなく、身の丈を知る必要がないわけです。強制して与えられることがなければ、子どもの万能感が減弱することはなく、社会からの離脱が亢進する、万能的世界観へのしがみ付きがやまないということになります。

 

日本式家族機能の話をしますと、戦後高度経済成長期の復興を支えた男性たちの「24時間働けますか?」という文化の中で男性と女性の分業が進みました。男性が過剰なほどの社会参加と経済的役割を担うことの出来る背景に、女性が家族を守るという物語が出来上がりました。子どもの生活から教育の全てを母親が担うことが通常的となり、父親遊離母子癒着が生じるわけです。当時は母親をサポートする資源は祖父母との同居の上で成り立っていたのですが、現代の核家族化の進みの中で癒着構造の亢進、父親すら家庭内にコミットできない状態となりえるのです。父親が時折思い出したように子どもに対して権威性を発揮したとしても、一貫性のない指導は去勢に至ることはなく拒絶の対象となってしまいます。時に母親は父親から子どもを守るように機能することもあり、去勢の遅延が繰り広げられるわけです。既に母子間に父親の入る隙間がなくなってしまうことがある。

高度経済成長期における男性の過剰な社会参加に関して、日本文化全体で「良し」としていたものであり、戦前の男尊女卑も交わりながら外で働く父親は家庭にコミットしていなくともヒーローになりえたのである。時折帰ってくる父親や手土産を持って帰ってくる父親に心を躍らせるのである。母親は父親を労わり、食事や生活の一切を請け負う。時折理不尽ともいえる父親の威厳に対しても目を瞑り「お父さんにきいてからね」など家庭内に権力による去勢の文化が色濃くあったのだ。

現在は違う。去勢とは正反対の方向に文化が進んでいる。好きなものを好きな時に好きな人と行うことが出来るのだ。

私は「方針なき個人主義」と勝手に呼んでいるが、any time any wayなどあってはならず、思い通りにならず諦めることや合わせる側に回る体験が必要なのだ。過剰に個人の権利や主張が野放図に解き放たれている状態となっている。去勢のなき自由はまさに無秩序である。自由は公共の福祉に反しない限りにおいて尊重され、自由を享受するために社会の決め事の中で生活するのである。去勢が先にあり、それが完了したものに自由が与えられるという根本が崩れかけていると思う節がある。

メディアを例に出すとわかりやすいが、以前までは一家でテレビを観ることが余暇の一つであった。視聴者側に選択権は幾つかのチャンネル選択だけであり、父親が野球を見れば仕方なく家族も野球を見るのである。去勢されながらも、そのような不自由な中にある自由に懸命に手を伸ばして得ていたのである。それで事足りる質量の中で生活していたのだ。

現在において父親はテレビを、母親は雑誌を、子どもはタブレットやゲームを。同じ室内にいることすらなく、好きな時に好きなものをザッピングできるのである。見るだけで事足りず、その気になれば自身のオリジナリティーについて世界に発信まですることが出来る。自己表現の自由が無限にあるためにメディアにおいて、虚勢は存在しない。「普通」という言葉は以前であれば普通であることを補償される安心感につながるようなものだが、現在は「普通」という言葉は悪口の一種となっている印象もある。「普通」では駄目なのである。凄くなければならず、埋もれて目立たず愚直な姿勢はダサいのだ。凄くない自分であるならば一獲千金を夢見て、逆転満塁ホームランを目指すような現実感の乏しさを見ることがある。目立たず愚直な生活のすばらしさは、YouTube奥の煌びやかな物事と比較すると選ぶべきものではないのだろう。まさに去勢されていないことで選ぶ、社会と自分の立ち位置を知らないことで生じる難しさである。

世界が自分に合わせてくれる状況から、自分が世界に合わせる状況へと主体の置換(主語の逆転)をしなければならないということである。主体性を身につけなさいとはこういった含意があると考えている。心理療法として面談をする際に、まずもって治療の目的は継続して行われる治療に参加することそのものになる。来たい時に来て、来たくない時に来ないではないではなく、治療構造としてルールや原則が先にあり、そのような社会に馴染ませながら出来そうなことを模索することがおそらく治療の中身となります。世界が自分に合せる状況とは不安を撤去し安心を与え変化を望まず安定を志向するわけです。母性の原理です。自分が世界に合せる状況とは、現状を変えることを選択し安定を置き去りにして進むことである。母性的世界観から去勢された父性的世界観への登場ということが社会化であるように思うのです。