あるSF小説を読んでいた時、ある一文が目に入った。とある女学生が退役軍人の老教師に向かって言った言葉だ。

「先生、私の母は暴力では何も解決しない、と言っていて私はその通りだと思います」

この問いに老教師はこう答えた。

『暴力は剝き出しの力は、ほかのどんな要素と比べても、より多くの歴史上の問題に決着をつけてきたのであり、それに反する意見は最悪の希望的観測にすぎない。この基本的な真理を忘れた種族は、常にみずからの命と自由でその代償を支払うことになったのだ』

これは私の好きな小説ロバート・A・ハインラインのSF小説「宇宙の戦士」の一文である。これは1959年に発行された少年向けのSF小説である。実は機動戦士ガンダムの元ネタになったともいわれているが詳細は割愛する。

ちなみに上記のセリフは回りくどいので私なりに割愛すると「暴力を使わないで決着しようとすると、莫大な時間も財力も労力も掛かり、尚且つ早期決着しないことによる他の命も危うくなる」という意味を孕んでいると考察する。

 

この一文からみれることは「暴力は何も解決しない」という心地よい正義感に包まれた一文と、裏の意味を同時に考えなくてはいけない。

暴力を使わなならば、それ以外の方法でどうするのか?それにかかる労力と費用は?時間はどれくらい必要なのか?

これは暴力を肯定するものではない。

暴力を使用することの結果と、しないことによる結果同等のものを出すにはどうしたらよいか考えなくてはならない、ということである。

 

類似例で、無農薬野菜を育てるとする。

無農薬野菜は文字通り、野菜を生育するのに農薬を一切使わない。農薬というのは虫除けの農薬から栄養になる農薬まで様々になるが、それを一切使わないことだ。

以前あったことだが、キャベツを無農薬で育てようとした人がいた。一見うまく行っているように見えたが、農薬を使わないことで大量発生した青虫に葉を食べられてしまい、周辺の畑にも被害を出してしまったことがあった。

これは農薬を適切に用いていれば防げたことであり、この人は無農薬飼育の弊害を想像していなかったのである。無農薬で飼育することで、農薬を使用しない労力や手間、費用を考えなくてはいけない。

農薬使用の本質とは、割かなくてはいけなかった費用、時間、労力の節約であるといえる。

 

これを踏まえて教育の本質とは何かと考えてみる。

個人的な考察だが、教育の本質は『成形』といえると思う。

熱されて溶けた鉄を、教育という枠に入れて、研磨し、何かしらで利用することが本質ではないかと思う。今の日本の教育は、良し悪しは別として、学校という枠にはめて、事務処理能力を強化するよう修練することを行うことに特化しているといえるのではないか。

その証拠に勉強ができる人は自己肯定感が高く、勉強ができないだけで全てができないかのような一元的な思考に陥りやすくなっているとも感じる。

学校の教師で最も怖いのは、この一元論的な考えのみで、子どもと接しているのではないかと思うときもある。学校の先生は少なくとも平均より上であるからこそ、教師になっているのであって、できない人の肯定感の低さによる自信のなさが、どこまで想像できているかと思う。少なくとも、一元論的に子どもを捉えずに多元的に捉えて、肯定感を下げるような対応だけ行うことは避けたほうが良いのではと思う。

この教育を批判している訳ではない。少なくとも、教科は一定の多様性はあるし、勉強さえできれば認められるのは悪い世界ではない。だが、この学習のような評価基準が多岐に渡ることが望ましいと思う。

また、学校に行かせず自由に、という意見もあるが、この世界に真の自由は無い。どこかしらのグループや社会に属さなければ生きてはいけない。学校に通わない動物も、森林なら森林の、草原なら草原のルールや環境に適応しなくては淘汰されてしまう。

少なくとも、教育という枠で一定に成形されるからこそ、我々は先人が築いてきたこの社会で生きていけることも忘れてはいけない。

 

総論では、教育とは学校の勉強ができるかできないかの一元論ではなく、遊びも含めて多元的なものであることが望ましく、子どもと接する時間が長い人間ほど、そのことを忘れてはならない。